台風被害

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明治三十四年(一九〇一)は、世紀の改まった年であり、「二〇世紀」の言葉がしばらく流行したそうである。翌三十五年一月に日英同盟が締結され、四月十九日には県下で第五番目に当る栃木県立大田原中学校(現 県立大田原高校)の開校式及び第一回の入学式が挙行されたのである。前記のような地元寄付金の問題や敷地選定にも多少の動揺が見られたが、「紫塚ハ土地高燥東北ニ小丘ヲ帯ビ、西南ハ田園ニシテ平担広闊、衛生上最高ノ地」と査定されたのである(「大高七十年誌」)。
 この年の「佐久山町日誌」には、「九月二十八日(日曜)、驟雨暴風、箒川俄ニ出水、岩井橋午前十一時落橋、柳平ヨリ浸水、一大支流トナリ、百聞堀破レタリ」と記録されている。その後の調査では、死者二人、家屋の全壊一〇戸損害見積金額八〇〇円、家屋半壊及び破損八五戸同二五〇〇円、水田二〇〇町歩(二〇〇ヘクタール)を含む農作物被害反別二四九町歩見積金額一二二〇〇円などの被害を蒙ったのである(佐久山・第三〇)。
 約一〇町歩(一〇ヘクタール)が河原と化した上流の旧野崎村の人たちと、復旧工事の問題などとからんで、箒川治水会なども創立される契機となった天災でもあった。この日は特に関東・東北地方に暴風雨が荒れ、足尾銅山山崩れなど、栃木県下では死者一六一名、行方不明六三名、負傷者三二八名、家屋全壊八六〇九戸、半壊五一六戸、流失四一二〇戸の被害があったのである(「年表栃木県のあゆみ」下野新聞社)。