日露戦争と負傷兵対策

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明治三十七年(一九〇四)紀元節の前日二月十日に、日本はロシアに対して宣戦布告をし、日露戦争が開始されたのである。当市域の住民の多くも、三国干渉以来の「臥薪嘗胆」の敵慨心を爆発させたのであろうか。
 西那須野町に因縁浅からぬ乃木希典司令官配下の第三軍による旅順攻略、大山巌満州軍総司令官指揮下の同三十八年三月奉天会戦での勝利、そして五月末の日本海海戦での戦勝の後、アメリカの仲介によるポーツマス条約調印で、戦争は終結したのである。日本は北緯五〇度以南の樺太や、翌年創立の南満州鉄道(株)などの利権を取得した。ちなみに、この日露戦争での本市内戦没者は、日清戦争の四名に比して、二五名の多きを数えるのである。三十九年三月には、戦傷者に次のような配慮がなされている。
 
     大収発第七〇四号
日露戦役ニ負傷シ廃兵トナレル者ノ内ニハ労役ニ服スル能ハザル為メ煙草小売業ヲ営マンコトヲ希望スル向モ尠カラザルベシト被存候ニ付此際右希望者ニ対シテハ法規ニ抵触セザル限リ指定可相成候ニ付貴部内一般ニ周知方御取計相成様致度此段及通牒候也

    明治三十九年三月十七日
                                    大田原葉煙草収納所
   佐久山町役場 御中
(佐久山・第二二)