翌四十三年六月には幸徳秋水が天皇暗殺計画の容疑で、逮捕処刑されるなどの大逆事件が発生したのである。この間八月二十二日に「日韓併合ニ関スル条約」が調印され、韓国は日本領土となり、朝鮮と呼ばれることとなったのである。
この年初秋に、皇太子明宮嘉仁親王殿下が、塩原御用邸からの帰途、県立大田原中学校に来臨された。「大高七十年誌」中の「皇太子殿下行啓」(抜粋)では、往時を次のように記している。
「明治四十三年九月六日、皇太子殿下行啓アラセラレ、校長尾河鉄太郎・教諭相山明義ニ謁ヲ賜ヒ、博物歴史幾何ノ教ヲ順次台覧アラセラレ、午後一時還啓アラセラル。此日生徒製品並ニ維新志士蓮田市五郎遺墨ヲ台覧ニ供ス。同日御尊影一葉ヲ下賜セラル。」
(「学校庶務記録」)
「東宮殿下には、去る九月六日、塩原御避暑の御帰途、態々我が大田原中学校に行啓あらせられたり。此日や、天気清朗にして暖気春を催し、一颯の風もあらざりき。御車を奉迎送せむとて、遠近より集ひ来る老若の男女山をなし、歓喜自ら湧けり。十一時頃御到着。しばし御座所なる講堂に御休憩の後、生徒の授業武術の練磨など台覧あらせられ、また、校長以下数名に拝謁を賜はりしかば、一同感泣して措くところを知らざりき(以下略)。」
「(前略)奉迎のためとて、各家の戸毎に立てられし日章旗は吹く風に翻へり、軒につるせる提灯もさながら今日のよき日を祝ふ如く、殿下の竜顔を拝し奉らむと、老・若・男・女・三々、五々、うち連れて出で来る者多く、いと賑へり。我が中学校生徒及び小学校生徒ならびに赤十字、婦人会員など、あまた道に居ならびて、今かとばかり御通過をまち得たり。嗚呼実に我が校の名誉はさらなり、大田原町の名誉亦何にか之に加へむ。実におそれ多き事ならずや(以下略)。」(「文苑」)
「(前略)奉迎のためとて、各家の戸毎に立てられし日章旗は吹く風に翻へり、軒につるせる提灯もさながら今日のよき日を祝ふ如く、殿下の竜顔を拝し奉らむと、老・若・男・女・三々、五々、うち連れて出で来る者多く、いと賑へり。我が中学校生徒及び小学校生徒ならびに赤十字、婦人会員など、あまた道に居ならびて、今かとばかり御通過をまち得たり。嗚呼実に我が校の名誉はさらなり、大田原町の名誉亦何にか之に加へむ。実におそれ多き事ならずや(以下略)。」(「文苑」)
なお、同校創立三〇周年記念式典が挙行された昭和六年四月十九日に、皇太子殿下行啓記念碑除幕式があり、現大高本館前の樹蔭に現存しているのである。