金丸原陸軍廠舎

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また、同年同月、太平洋戦争まで逐年頻度を増して利用された金丸原陸軍廠舎が起工され、四十五年(一九一二)に一応竣工しているので、「金田村郷土誌」によりその一端を紹介しておく。
 
   第七節 陸軍演習廠舎
第十四師団金丸原陸軍演習廠舎は本村大字鹿畑字牛首利地内に在り。
廠舎は将校室、兵舎、厩舎、炊事場、医務室、倉庫等凡て三十余棟より成り。
明治四十三年九月起工同四十五年に竣工したるものにて千葉縣習志野予備病院仝捕虜収容所等と軍馬補充部白河支部より移築せるなり。
屋舎坪数 四千二百余坪
演習地面積は、陸軍用地六十四万二千八百四十二坪、借入御料地二百二十万三千八百六十坪(約一千町歩)の鐭鹿原と称する所なり。
 (中略)
當廠舎特別の御事蹟としては大正十年四月七日午後三時十五分御着、第二皇子雍仁親王殿下 陸軍士官学校御在学中御在廠同月十八日迄御滞廠被遊同日午前九時三十分御帰校の途につかせらる。
 
鐭鹿原は師団演習地としてのみならず近時飛行演習地としても知られ昭和四年秋季の陸軍特別大演習の際は北軍飛行隊根拠地となれり。
 (中略)
今、金丸原として広く知らるる鐭鹿原は往昔金丸村奥澤村鹿畑村の中間に在るを以て金丸村にては金丸原と言ひ、奥澤村の人々は奥澤原と言ひ、鹿畑村にては鹿畑原と称せしを何時の頃よりか各村人の称する中を採りて金丸奥澤鹿畑の原との意味にて其頭字を取りて鐭鹿原と言ふに至れるなりと云爾(シカイウ)

(「金田村郷土誌」)


鹿畑廠舎正門(「大那須野写真帳」青柳武大氏提供)


鹿畑バラック(「郵便ハガキ」大島孝喜氏提供)

 この間の同四十四年四月二十六日に、二年前の四月十日から開設されていた私立大田原女学校が、大田原町立実科高等女学校と改称された。修業年限三か年に履習する学科目は、当時は女子に必要とされた家事・裁縫・手芸・作法等が主要科目であり、それに農業・体操なども加えられ、英語は随意科目とされ、入学志願者二三名が全員合格者となったのである。それから後、郡立・県立と変った現栃木県立大田原女子高等学校は、この日が創立記念日とされている(「大女高六〇年誌」)。