天皇崩御と乃木夫妻殉死

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明治四十五年(一九一二)七月、官報号外をもって、明治天皇(名は睦仁、六一歳)は「三十日午前零時四十三分崩御あらせられたり」と告示された。前出「大高七十年誌」の「明治天皇崩御」の事項から抜き書きすると、次のようである。
明治四十五年七月二十三日 天皇陛下御不例ニ付遠隔ノ生徒一同ヘ謹慎諭告通知ヲナシ、附近ノ生徒一百余名ヲ召集シテ注意ヲ与ヘ、校長職員之ヲ引率シテ大田原郷社ニ参拝シ祈願ヲナス

大正元年七月三十一日 本日ヨリノ年号大正ト改マル

尚本日職員及ビ生徒一同ヲ学校ニ召集シ、午後三時講堂ニ於テ哀悼式ヲ行ヒ、且ツ大喪中ニ関スル注意諭告ヲナス

同   同 十三日 御大葬当日ニ付、校長出張中ノ為メ相山教諭校長代理ニテ、午後八時校庭ニ於テ遙拝ヲ挙行ス

 なおのちに、西那須野町石林の乃木神社に合祀された乃木希典・静子夫妻が東京の自宅で明治天皇に殉死したのは九月十三日、御大葬の夜のことであった。この、乃木大将と西那須野町石林の乃木別邸で時折接触した旧制大田原中学生が受けた印象や、「将軍の死豈徒爾ならんや。今より以降将軍の志を体し、力の限り国のために尽さんことを期すべきなり」との感化を受けたことなどは、同誌の「乃木神社と本校」、「県社乃木神社と参拝」等で、昭和二十年の敗戦まで続くのである。