隣国中国では前年からの辛亥革命で、一九一二年(明治四十五年)一月一日に中華民国が成立し、翌月清朝が滅亡したのである。同じ年大正元年の末には憲政擁護運動が高まる中で、桂太郎内閣が成立したものの、翌二年(一九一三)二月には総辞職に追い込まれる「大正の政変」があったのである。
同三年六月にオーストリア皇太子が暗殺されたサラエボ事件を契機として、七月には欧州で第一次世界大戦が勃発し、同七年(一九一八)十一月のドイツの降伏まで続くのである。この大戦に日本は、日英同盟を名目に、八月二十三日に連合国側の戦列に加わったのである。そして十月に赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し、十一月には中国山東省のドイツ租借地青島を攻略したのである。各地で戦勝祝賀式や提灯行列の波が見られた。この大戦で当市域出身者の戦没者は皆無であった。
参戦の翌四年(一九一五)の大田原中学校寄宿舎々誌「那須野」一〇月号によれば、「十月六日金丸原に来られし徳川(好敏)飛行大尉来校、飛行機に関する有益なる講演あり」。「予定より二日遅れて十月九日飛行機来たる。舎生四時起床、金丸原に参観せり」と。宇都宮から飛来した四機の複葉機を驚きの目で見上げた当時であったのである(「大高七十年誌」)。
ヨーロッパではその後も、戦車・潜水艦などの新兵器を登場させた戦闘が続くが、大勢としては「西部戦線異常なし」の戦況であった。
しかし、同六年(一九一七)四月に米国が連合国の戦列に加わり、一方十一月には同じ連合国の一員であったロシアにソビエト(労兵会)政権が成立し、翌年三月には同盟国と単独休戦条約に調印して、戦局は急速に転換するのである。
なおここで、明治の日露戦争で勇名を内外に知られた山口・鹿児島二県出身の乃木希典と大山巌両将軍に関連した、次の二件を付記しておく。すなわち、第一次世界大戦進行中の大正五年(一九一六)四月十三日に、栃木県社乃木神社が現西那須野町石林旧別邸地内に創建され、十二月十七日には、国葬後の大山巌の遺骸が同町永田区に埋葬されたのである。両日とも当市域関係者も多数参列して礼を尽したが、以後昭和二十年の太平洋戦争終結まで、四、九月十三日の乃木祭、陸軍記念日の三月十日などのほか、ことあるごとに同所に参拝するのが、戦時下の慣行ともなった箇所なのでここに触れておくこととする。
それにしても、大正三年(一九一四)度には、それまで一円八〇銭であった旧制大田原中学校の授業料が二円になった。それが九年度には二円三〇銭になり、十年度には三円になり、十四年度には三円五〇銭になった(「大高七十年誌」)。これは足かけ一五年の短期間に四回の値上がりである。大戦景気による「俄か成り金」が本市域住民中に出現したかどうかはいざ知らず、米騒動に続き翌九年に始まった戦後恐慌以後も値上げが続いているのである。
さて、金田村村議会に提出された「既往五ケ年ニ渉レル世界的大動乱モ、殆ド終局ヲ告ゲ今ヤ漸ク平和ノ曙光ヲ見ントスルニ至レリ」と始まる、「大正七年事務報告」(金田・第三七)では、「本年度国税納期内完納ノ故ヲ以テ税務監督局長ノ表彰スル処トナリ、コレ本年農作物ノ価格上騰シ、経済ノ順調ナルニヨルベシト雖モ一ニハ村民ノ納税義務観念向上ト見ルベシ」とあるが、このような記述中に、特別大演習やシベリア出兵の兵事関係とともに、小学校児童の低い出席率、高いトラホームの罹患率、流行性感冒による死亡者四二名を出す衛生環境の貧しさなどの反面が見られるのである。
この七年(一九一八)四月十七日に、二年有余の準備造成期間を経て、東野鉄道株式会社運営の汽車が、西那須野と黒羽駅間一三・一キロメートルを開通・往復するのであるが、周辺住民の感慨はいかばかりであったろう。