シベリア出兵

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翌八年の、「殊ニ五ヵ年ニ亘レル大戦乱ノ後ヲ享ケ茲ニ世界一新ノ文化ヲ再造セントスルノ時ニ際シ」、「近来経済界ノ発展甚ダ慶賀スベキモノナキニアラザルモ一面国民消費力ノ増大セル結果諸物価ノ暴騰トナリ、村民生活上憂慮スベキ点ナキニアラズ」とされる、「大正八年金田村事務報告」の「兵事」関係から、シベリア出兵などについて引用(抜粋)する。
五、動員事務ニ関シテハ本年四月ヨリ第十四師団出動ノ結果、本村ヨリ西比利亜出兵在郷軍人及現役中ニアルモノ合計十五名ナリ、特ニ事務ニ関シテハ敏活ヲ期スル為メ、整理上些ノ遺憾ナキヲ期シツツアリ(中略)

六、海軍志願兵合格者二名、現在横須賀海軍団ニ入団セリ

七、大正八年十二月入営兵奉告式ヲ那須神社ニ於テ執行セリ、西比利亜出征中ノ在郷軍人及現役者ノ家族ニ対シ、毎戸ニ付訪問セシモ別ニ異状ナカリキ

(金田・第一五)

 この大正十一年(一九二二)までのシベリア出兵では、金田地区からは一名の戦死者が出たが、同じ村内の兵士に授与された勲章の勲記を第7表に掲げておく。

第7表 勲章勲記
(津久井清隆氏蔵)

 大正九年(一九二〇)には全国普通選挙期成連合会が結成され、上野公園ではわが国最初のメーデーがわずか五、〇〇〇人ほどの参加で行われたのである。翌年には足尾銅山大争議もあった。