関東大震災と朝鮮人問題

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大正十二年(一九二三)九月一日、小田原付近を震央とした関東大震災が起こったのである。京浜地区を中心とした大災害は、宇都宮震度五の強震は栃木県内にも大きな波紋を投げかけた。とりあえずの救援活動、避難民などから広がった朝鮮人問題、そして震災後に続く恐慌とである。まず、当日の県立大田原高女の「教務日誌」から引用する。
 
     九月一日(土) 雨
一、午前八時頃より歇んでは降り、降っては止む二百十日の荒れを象徴した吹き降りであった。恰度十二時五分前から近来稀なる強震があった。強い家鳴りと共に左右動が二、三分程続いた。川の流れが溢れ出た程で、人心は恟々たるものがあった。〇時三十分迄に揺り返しと称する小震が四、五回程続いて居ったが、近来稀なる強震であった。幸に本校は無事。

 なお、この東京を中心とした言語に絶する「関東大震災」による混乱、大被害を「後編栃木県医師会史」で要約すると、「午前十一時五十八分四十四秒、大地震が突如として関東地方をおそった。東京は震災が最大のものとなったのである。第一回の大震動直後に百四、五十カ所から一斉に火災が発生したからである。焼失家屋は四四万七〇〇〇戸に達した。死者九万九〇〇〇人、行方不明四万三〇〇〇人、負傷者一〇万三〇〇〇人以上に及ぶという大震災であったのである。栃木県下は幸いに震災を免れた。当時大正天皇は日光御用邸におられ、知事一行は早速参候したのである。宮内省との連絡報告をしているうちに、東京は空前の大被害との第一報が入り、刻々拡大、深刻さの情報が続く。直ちに救護対策が協議されたのである。」救護班が急きょ編成されたり、救援物資が相次いで送付されたのである。
 古老の言によると、東京方面の赤く染まる夜空におののきながら、東京の惨状におもいをはせる一方もう一つのデマにとりつかれた異常な雰囲気が人心をとりこにしたという。朝鮮人の放火で大火災となったとか、井戸に毒を投げ込んでいるとか、果ては日本転覆を狙っているとか。新聞・通信が途絶えたため、ニュースを求める人人がつめかけた「小山・宇都宮駅などで五名の朝鮮人と、朝鮮人に間違えられた二名の日本人が殺され、二十数名が負傷した」という(「栃木県の風土と歴史」)。また、「後編栃木県医師会史」では、この奇怪な「朝鮮人問題」について、以下のように記述している。「特に朝鮮人に対しては不穏の行動があるとして誤解され、各地で暴力が加えられたので、……本県では那須金丸ケ原陸軍廠舎に収容保護した朝鮮人は四百名であった。これらに対して衛生班は常設して健康管理を行った。」と。
 また、その影響は東野鉄道株式会社の営業成績にもあらわれたのである。十一月の営業報告書には「九月一日東京及附近ノ大震火災ノ為メ商取引ハ一時杜絶シ且参ケ月ニ渉リ救恤品ノ無賃輸送並ニ割引運送ヲ為シタルト震災以来到着貨物ノ激減シタルニ起因スルモノニシテ全ク一時的現象ナリ敢テ悲観スルニ足ラサルヘシ反テ将来ニ於テ建築材料ノ運送ノ増加ヲ来スハ疑ナキ所ニシテ次期ノ成績ハ期シテ待ツ可キナリ…」と記されている(「東野交通五十五年の歩み」東野交通株式会社)。