なにしろ大正末期の米価に回復するのに、昭和の一五年間を要したのである。「二里山の星霜=栃木県議会百年外史」(下野新聞社)の「米価大暴落に泣く、天災も追討ち借金で身売りも」との見出し「農業恐慌」から、初めにその状況を適宜斟酌してみると以下のような状況である。
意外にも昭和四年から十年までの八年間には、米価が長期間低迷している反面、八年間のうち豊作となったのは五年、八年、十一年の三か年だけで、それ以外の五年間は冷害・干ばつ・秋の風水害等の天災が続き、いずれも凶作なのであった。なかでも、九、十年は連続して凶作となり、栃木県平均で三割も減収した。特に東北型の稲作条件下にある栃木県北地方は、冷害によって収穫皆無の水田が続出し、飯米に困る農家が多く出たのである。欠食児童も多く見られ、大半を占める一ヘクタール前後の農家では、肥料代を支払うことができず、年間百円もの借金を余儀なくされた。小作農の場合は売る物が何もないので、義務教育中の子供たちを中途退学させて年期奉公に出し、幾分かの前借金を得て一家の生計を持ちこたえたのである。「飯米や肥料代の犠牲になって乙女七名が身売り。想像外の県北凶作地」と「下野新聞」(昭和十年二月二十七日付)に報道された窮状にあったのである。