中等学校の再募集

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さてここで、昭和初期の農村不況を教育面から裏付ける、「栃木県史 史料編・近現代八」所載の史料を紹介する。
 その一つは、中等学校の入学志願者数が昭和六年度に、再募集しても定員に満たなかったことである。「下野新聞」三・四月の二つの記事から、当市民に関係の深い箇所のみ掲げる。まず、「入学地獄一変、募集地獄となる」の見出しが目を引く。
 
 十五日を以て締切った県立中等学校の入学志望者状態左の如く、定員に達しない学校は二七校の内一四校で、極度に不足な学校は再募集する筈である。関係学校のみ掲載すると以下のようである。
  学校名   定員   応募者  過不足
  大中   一五〇   一二〇   二五
  大女   一〇〇    八二   一八
  矢農   一〇〇    九九    一

(「下野新聞」昭和六年三月一六日付)

 続いて、「再募集しても定員に達せず」として、次のような結果が示されている。
   学校名   募集数   応募者数
   大中     二四     一六
   大女     一七      八
(「下野新聞」昭和六年四月五日付)

 以後数年間続くこのような状況は、現今の入試地獄とか、受験戦争とかが社会問題視される以前の、経済的貧困による落ちこぼれ以外のなにものでないことを物語るのである。
 もう一つの点は、公立学校教員の給与未払い問題についてである。このことについては、昭和七年七月発行の「下野教育」第三九一号に詳しいが、ここでは割愛する。