満州事変

715 ~ 716
すでに昭和六年九月十八日夜、満鉄柳条溝鉄道爆破事件をきっかけに、満州事変へと拡大してゆき、翌年初頭までに関東軍は中国東北部を占領したのである。三月一日には満州国建国宣言がなされ、これら軍部の露骨な侵略に逡巡した首相犬養毅は、五月十五日(五・一五事件)に「問答無用」と射殺されたのである。このころから「非常時」という言葉が流用されたが、それを「大田原高等女学校・昭和七年度教務日誌」に見ることができるので次に記す。
 
   一月十六日
三年生某血書して在満軍隊に送らんことを求む。慰問文に対する礼状に感奮せるなりと。処置未了。
   一月十七日
本日血書三通を持参す。校長及び風紀係より、当人の将来から見て反省を促がす。熟慮の結果、学校にて保管を依頼することとなれり。
本日は大雪につき六時限を欠く。自転車預かり四八台、家庭に通知できる者は寄宿舎に泊まるも可なり。
   九月十八日
澄宮殿下、東久邇宮殿下、士官学校生徒として金丸廠舎に御成りにつき、職員及び寄宿舎生一同七時頃校門前にて奉迎す。満州事変二周年につき校長講話。陣没者墓地清掃、本校分は五ケ所八氏、分担除草後、生花、線香を供えたり。

 ただこの戦没者数については、既掲の「平和の塔記念誌」によると、野崎村を除く四地区でそれぞれ一名、計四名が記載されているのみである。あるいは戊辰戦から日清戦まで遡る数字なのであろうか。