昭和十五年は、「金鶏輝く日本の 栄ある光身に受けて いまこそ祝えこの朝(アシタ) 紀元は二千六百年 ああ一億の胸はなる」の「紀元二千六百年奉祝歌」に明け暮れた。一月に栃木県産業報国連合会が発会式をあげ、四月には、米の強制出荷が割り当てられ、一方では米・味噌・醤油・砂糖・燐寸・木炭など、生活必要品に切符制が採用され、各地で漸次実施されてゆくのである。
前年、黒羽―小川間の東野鉄道廃止案の出た株主総会席上で、「木炭自動車ノ運行ハ免許ニナリマスカ」との発言があったが、すでにバスは薪に切換えられつつあった。「新体制」の「バスに乗り遅れるな」などの言葉も当時の流行語であった。「ぜいたくは敵だ!」のポスターが貼られ、十月二日公布の「大日本帝国国民服令」で、色はカーキ色を主とした五つボタンの男子服が、仕事着から礼服までに活用されたのである。女性にはモンペ姿が見られてきた。九月には日独伊三国軍事同盟が締結され、軍国主義の枢軸国はいよいよ結束を固めていったのである。
十月には新体制運動の推進団体として大政翼賛会が発会し、前月の内務省通達「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」による隣組の制度化と相まって、「臣道実践・上意下達」の組織化が進められたのである。回覧板・常会などを通じて、食糧等の配給、愛国貯金の割り振り、勤労奉仕作業などあらゆる面で徹底されていったのである。
十一月十日に全国中等学校代表生徒などが参集して、皇居前で紀元二千六百年奉祝記念式典が行われた。「東野鉄道昭和十五年度下半期営業報告書」には、次のような記事がある。「而シテ業績ノ運輸収入ハ一日平均三九八円余総収入七二、九四七円余ニシテ、前年同期ニ比シ一割七分強ノ増収ヲ見タリ。即チ旅客ニ於テハ沿線神社仏閣祭日ノ参詣及ビ時局関係ノ増加ト学徒ノ金丸秋季野外教練ニ依ル輸送ノ多カリシニ由ル」(「東野交通五十年の歩み」)と共に、世相の側面がうかがわれるのである。