金属回収運動

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さて前記からは省いたが、金属回収運動も同十六年秋ごろから執ようなまでにくり広げられたのである。大田原町では同十七年の十一月十二日に回収品を那須地方事務所・大田原国民学校・下町薬師堂に集めさせられた。翌年一月の「民間金属類特別回収成績調」で、次のとおり地方事務所長宛に報告されているのである(第1表)。
第1表 民間金属類特別回収成績表
町村名戸数供出者数同上同上供出数量
大田原町二、三七八三、一七八一、六八七一、四八一一六、八一〇一一〇二、三六〇〇六〇
(大田原・第五九)

 特に十二月十五日に、今は三代目(設計益子孝治)となっている初代金灯籠が「率先回収に応じ、盛大なる告別式を執行し町民多数の歓送により」地方事務所へ供出されたのである。付記しておくと、この金灯籠は文政二年(一八一九)に鹿沼の鋳物師小野口喜澄によって製作され、奥州道中大田原宿上町地内(現中央一、米喜商店前交差点)に、町内安全の常夜灯として建立されていたものである(大田原・第六一)。
 また大田原町議会で「時の鐘」献納が決議され、四月二日に役場(現 城山一商工会議所地)でその告別式が行われたのである。この鐘は宝暦十四年(一七六四)四月佐野天命の鋳物師太田甚左衛門秀重によって鋳造され、高さ五尺一寸五分(一・五六メートル)、周囲七尺八寸(二・三六メートル余)(乳五段五列)の青銅製である。廃藩まで大田原城鐘であったものを町が引継ぎ、役場裏の高い鐘楼から町民の覚せいを告げていたものである。重量四五三キロ、撤去費二五円、代価は辞退したものの、四〇三円一七銭もあわせて送付されているのである。

大田原町役場鐘楼(昭和10年)


初代金灯籠(菊地甫氏提供)

 なにしろ対象物品が当初の不必要品・廃品から、十八年七月の「釦(ボタン)非常回収数量調査方ノ件」で、大田原国民学校、同青年団、同警防団で合計前釦一七、一六六個、袖釦二、七八二個と町長から地方事務所長宛に提出されている有様である。「県下一斉に、最後的供出を実施」などしながら、同十九年七月の「発見回収実施ニ関スル件」以後も再三再四供出を求められ続けているのである。洗面台・傘立・火鉢・門扉・雨どい・吊下手洗器・手すり・格子・泥拭器から街路灯・看板・椅子・腰掛・戸レールなどまで、ありとあらゆる金属製品へと拡げられたのである。警鐘台・病院の金属ベット・蛇尾橋欄干も撤去され、二十年に入ってさらに大田原高女はボール四五〇個、青年団がはんごう四〇、国民学校ではさじ一四、しゃもじなどさえも供出しているのである。
 この運動は寺院の梵鐘や仏具・法具の類にまで及び、それ等のほとんどが供出されたのである。「那須郡金工品の調査」(渡辺竜瑞著)には、当市域(大田原町・佐久山町・親園村・野崎村)のそれらについても二〇ページにわたり記録している。これらの大部分は供出され、失われていて調査は貴重である。