昭和十九年三月に、県疎開対策本部規定にならい、野崎村をはじめ疎開対策受入実行本部を発足させ、都市疎開に関する各郡町村長常会も召集されていたのである。七月にはサイパン島守備隊が玉砕し、東条内閣は総辞職、小礎国昭内閣が成立した。すでに六月三十日に東京都区内国民学校初等科児童(現在の小学生)の集団疎開が閣議決定され、その後適用範囲は都のほか一二都市に拡大されたのである。一万九千人の割当を受けた栃木県では、八月二日各市町村長等宛に、「今般特ニ戦局ノ推移ニ対シ、都市防衛力ノ強化ト次代国民ノ保護ヲ図リ、其ノ健全ナル発育ヲ期スル」ための「帝都集団疎開ニ関スル件」(金田・第二一五)を通達し、あわせてその「実施細目」を配布したのである。そして十一日の那須地方事務所での打合せ会で、現在の本市関係では、親園村一〇〇名、佐久山町二一〇名、金田村一五〇名、野崎村一三〇名の配属が提示された。実際には多少遅れて、それぞれ同十九年八月下旬になって目的地に迎えられたのである。
学童疎開関係文書