大中・大高女通年動員

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昭和十九年八月には、本土防衛のための新設「納部隊」などの将兵が大田原町内に隊列を組み、光真寺・成田山・大田原中学校・大田原国民学校等が兵営化し、野砲や軍馬も往来するようになる。卒業生も女子挺身隊として軍衣縫製から工場化する大田原高女にも軍人は出入したのである。
 その大田原中学や大田原高女の生徒たちは日中事変当時から始められた勤労奉仕を、学校報国団、報国隊として特に援農作業などで、随時学校を留守にする状況下に置かれていたのである。大学生などは前年に学徒出陣となり、中等学校生は本年度第一学期中からいわゆる通年動員に組み込まれていったのである。次は、「大高七十年誌」、「大女高六〇年誌」から取上げて表式化したものである。壮行式などが行われ、「今こそ筆を投げうって」それぞれの職場へと出動したのである。二十年四月十三日、校内・父兄間でも異論のあった富士電機川崎工場へ出動していた大田原中学四年生がB29の空襲で焼け出された状況や、その他の状況が両誌には詳しく記されている。

大田原中通年動員金丸原飛行場(鈴木定夫氏提供)


大田原高女通年動員壮行会(大田原女高提供)

昭和十九年
六・二七  大田原高女四年生、中島飛行機製作所太田工場(群馬県太田市)へ出動
七・一   大田原中学五年生、陸軍金丸原飛行場・埼玉飛行場(現 黒磯市)へ出動
九・一   大田原中学四年生、関東工業入所式(現 宇都宮市雀宮町)
一一・一四 大田原高女三年生、中島飛行機宇都宮製作所へ出動
昭和二十年
二・一〇  太田市中島飛行機空襲で全焼
二・一一  大田原中学三年生の第一陣、富士電機川崎工場へ出発
二・二八  大田原高女四年生、中島飛行機大田原工場へ
三・一   大田原中学二年生、中島飛行機大田原工場へ
四・一三  大田原中学四年生、川崎市で空襲罹災
六・一   大田原中学三年生、皇国第二九九四工場へ(中島飛行機大田原工場国立移管により四月一日から名称変更)

七・五   大田原高女四年生、皇国第二九九四工場へ