そして編成替えされた鉾田飛行部隊金丸原飛行場、同埼玉飛行場(現 黒磯市埼玉)の上空を、S字形に旋回しながら銃爆撃を繰りかえしたのも、七月に入ってからである。次に当時の大田原中学小木曽滝男教諭の日誌「終戦前後の紫塚」から転載する。
七月十日 空襲熾烈なり。敵機は頭上で悠々と羽を振って旋回し、急降下して金丸へ爆弾をたたき込む。また悠々と旋回してきて火を吐く機銃を沿びせかける。息がつまる。迎えうつものは鳥一羽もない。生徒は二三歩の傍にいる。大田原を臨む岸の森林中に坐す。
七月十八日 工場は仕事がない。しかも時間だけは定時を要求する。午後三時敵機の機銃掃射あり。
八月十三日 五時半空襲警報で起され、すぐ爆音が聞え爆弾が落ちた。敵機は次々と頭上を乱舞して遠く爆弾が次々と落ちた。金丸と奥沢が心配だが出掛る機会がない。あの早さだから、まさか生徒も行っていまいと思う。一日空襲の中に暮れた。日本には何の成算もないことは明らかだ。ただ軍部首脳者の意地が戦さを続けているだけだ。敗けるまでやるだろう。
七月十八日 工場は仕事がない。しかも時間だけは定時を要求する。午後三時敵機の機銃掃射あり。
八月十三日 五時半空襲警報で起され、すぐ爆音が聞え爆弾が落ちた。敵機は次々と頭上を乱舞して遠く爆弾が次々と落ちた。金丸と奥沢が心配だが出掛る機会がない。あの早さだから、まさか生徒も行っていまいと思う。一日空襲の中に暮れた。日本には何の成算もないことは明らかだ。ただ軍部首脳者の意地が戦さを続けているだけだ。敗けるまでやるだろう。
(「終戦前後の紫塚―一教師の日記より―」小木曽滝男 大田原高校所蔵)
前出の工場とは、奥沢地内黒羽街道から外れた松林山中の中島飛行機大田原工場のカマボコ型一棟の組立工場である。同宇都宮製作所(皇国第一、八一四工場)は七月二十六日に別途、大田原「神社境内地使用許可願」(大田原・第四三)を提出し、「境内地下ニ墜道ヲ掘鑿、地下工場建設」の計画を進めようとしていた。大田原高女「教務日誌」にも「一、生徒家庭実習第二日 一、本日ハ終日空襲警報発令下ニ過ゴス」とある八月十三日には、午前六時ころに前記大田原工場も爆弾で一部破壊されたが、未だ出勤前のため一名の死者で済んだものの、金田南国民学校及び民家四軒が全焼し、飛行場格納庫数棟も焼失したのである。
しかし八月六日広島へ、九日には長崎へと相次いで原子爆弾が投下され、八日にソ連が対日宣戦をして満州・朝鮮への侵攻を開始したのである。