食糧供出要請

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昭和二十年八月十五日、第二次世界大戦は終結した。そして、「りんごの歌」が明るく、町から村へと流れた。しかし、電力事情も極度に悪くて、戦中の灯火管制下のような暗い夜が続いたのである。しかも、しらみがはう衣服をつけ、廃墟となった都市からの被災者、しだいに増加する復員兵や外地からの引揚者で、農家の納屋・長屋などは無論、一棟に複数の世帯が同居することもまれではなかった。しかし、何といっても、食糧難が消費者にとっては最大の戦いであった。遅配・欠配の続くなかで、米・麦・甘藷をはじめ主食や野菜の買出し、「たけのこ生活」が同二十三年ごろまで続いた。
 金田村長は終戦後いちはやく、食糧の供出協力を村民に訴えているのである(第一編行政第三章参照)。
 またこの一週間後に、栃木県から各市町村長宛に「戦争遂行ヲ主目的トシタル事業ノ転換等ニ関スル件」を通達したのである。「国民義勇隊」、「軍用保護馬鍛錬施設事業」などは中止するが、「通貨膨張防止ノ要」からも「国民貯蓄奨励」をはじめとして、生活に結びつく諸種の生産には、引続き増産を要請しているのである。
 十一月には県内政部長から、各市町村長宛「地方長官会議知事訓示伝達ノ件」が配布された。以下、その中から二、三の要旨を抽出する。
 
「幣原首相カラ我国ノ実態ニ付テ二ツノコトヲ申サレタノデアリマス。其ノ一ハ終戦後ノ我カ国力ハ疲労困憊ノ極ニ達シテ居ル事実デアリマス。其ノ二ハ敗戦国デアルト云フ事実デアリマス。……私ハ県民各位ガ此ノ厳然タル事実ヲ一層深ク胆ニ銘ゼラレンコトヲ希望致シマスト共ニ、……市町村行政モ亦此ノ事実ノ上ニ運営セラレナケレバナラナイト存ズルノデアリマス。」

とまず指摘する。
 そして、「第一ニ供出ノ促進」を訴え、「未利用食糧資源ノ利用ニ付テハ先ヅドングリ、甘藷ノツル及葉澱粉粕、桑ノ残葉蝗等此ノ秋ニ於テ収穫シ得ルモノハ徹底的ニ掻キ集メ」、「此ノ秋ノ麦及来春ノ馬鈴薯」の増産をと要請しているのである(金田・第二一三)。