食糧増産

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これらの中等学校では、終戦になっても授業再開とはゆかなかったようである。食糧確保のための援農作業が形を代えて展開されたからである。大田原高女では、「八月二十一日、詔書奉読式。明日より疎散教育開墾作業のため、その出身町村に学徒を帰し、各町村国民学校報国隊所属となる。依って応援各町村別に集合各種注意を与えた。学校隊は学校農場作業をする。」(「大女高六〇年誌」)とある。最高七三名のクラスもできた全校生が、そろって普通授業に入ったのは十月一日からである。その朝礼訓話に「衣食足らずとも礼節を知れ」と諭したりしている。校庭の隅々はさつまいもの葉におおわれ、街角に菜園が見られ、街路に馬糞を拾う様は戦中と全く変らぬ風景であった。とにかく翌年六月にも、農繁期家庭実習二週間が設定されるなど、食糧対策が最重要で、国民すべてがそれに苦労していたのである。