四・一 一三年ぶりに砂糖の統制解除
七・一 住民登録実施
七・八 世界初の噴射旅客機コメット号、ロンドン・東京(羽田)間を二七時間半で飛ぶ
この二十七年八月九日の「栃木新聞」は第一面トップに、「県北の赤い村、金田を急襲、不穏勢力31名検挙、武装警官五百名が出動」との見出しで報道した。いわゆるこの「金田村事件」については、その三年後の三十年に発行された「むらの構造―農山村魚村の階層分析―」(近藤康男編著 東京大学出版会)などに、詳細に論述されているのである。また、「栃木県大百科事典」(栃木県大百科事典刊行会編集 下野新聞社)にも取上げられているが、ここでは、「栃木県歴史年表」(下野新聞社)から全文を転載して紹介する。
金田村(現大田原市)は大田原市の北東部、那須野ケ原の東端にあたり、八溝山系の裾野に連らなる純農村地帯である。しかし地味は火山灰地の酸性土で収益率の低い土地で、しかも新開地で、農家戸数約千六百戸の多くは小作、または自小作兼農という状態であった。しかも水田・畑・山林各千五百ヘクタールを擁する広い村であるが、終戦までは金丸ケ原という広大な平地を陸軍の演習場と飛行場にとられていたという事情もあって、残りの土地は少数地主の所有であり、その地主もまた不在地主が多かった。
農地改革に際しても金田村近辺の町村が百ヘクタール余にわたって解放されたが、金田村においては実際の農耕地の地籍が山林登記であったため、わずか六ヘクタールしか解放されなかったという。耕地一ヘクタール以下の農民が約半数を占め、特に乙連沢部落等の開拓地は全戸貧農層に入るという状態で、山に囲まれながら山を持たぬ農家が大部分であった。これらの農家は山林地主に一ヘクタール一万円という謝礼金を支払って落葉を集め、たい肥を作っていた。落葉は農民にとってタバコや換金作物に必要欠くべからざるものであったが、山林有の約三割が村外の不在地主の土地であり、残りの大部分は一部地主の所有にかかるものであった。従って農家の中には三十キロも離れたところに入会地を求めたものも多くいた。
昭和二十七年、この金田村で貧農を中心とした農民による大規模な未墾地解放闘争が起きた。たい肥用の落葉を求めて、不在地主の持つ山林の払下げを要求したのであったが、金田村は終戦直後から共産党の指導による初めての農民組合が結成され、農地委員会にも五人の小作人代表を送りこむ勢いで、組合員千二百名を擁し、百五十名を越える共産党員が活動したのである。終戦直後、ソ連作家シーモノフも実情視察に来たほどであった。
しかし、この闘争も共産党員の内部指導権争いと急進化について行けない農民層の脱落という事態をまねき、一方、村の指導層・在地地主の巻き返しの強化にあい複雑な事態に追いこまれて行った。昭和二十七年四月、乙連沢部落の羽田部落内の銀行山の解放要求に四十名の農民が署名し、五月一日、農民組合再建大会を開き、その席上百五十名の農民が「未墾地解放・不在地主所有山林解放」の決議をして、役場・農協に押しかけ、村長・農協組合長の辞職要求、村の農地委員幹部と農協役員の非常用種モミ横流し事件の責任追求が要求された。五月十八日までには谷中・羽田・小滝・北金丸の各部落からも解放要求が出され、農民二百三十名による銀行山の実地調査が行われ。農業委員会も銀行山総面積百五十ヘクタールを解放適地と指定するに至った。
しかしながら、この運動推進の指導層内部には、在地地主の革新派も何名かいたために不在地主所有山林のみを対象としたという思惑もあり、貧農の不満も蓄積されていたのである。
農業委員会は、この決定をもとに解放申請を県に提出した。しかし県側は急進的な一部共産党員の指導を行き過ぎと見た点もあってなかなか申請を承認しなかった。そこで農民の中にもあせりと戦術転換を要求する声が高まり、指導部の分裂と農民の腰くだけが表面化し、運動自体が行き詰ってきたのである。あせりは内部対立となり、これがさらに暴力事件につながって行った。
農地委員長宅へのふん尿投げ込み事件、役場吏員に対する殴打事件等が相次いで起った。こうして村内にも殺気と対立の気配がみなぎっていたころ、八月八日未明、大田原警察を中心とした武装警官四百名が金田村を強制捜査し、村議を含む三十六人の組合員を暴力行為・傷害の容疑で一斉検挙を行ったのである。この痛撃により金田村山林解放闘争は一挙に壊滅し、闘争は被告等の救援活動・法廷闘争に転化させられたのである。
かくて画期的な金田村事件は終止符が打たれたが、この闘争の刺激により、県内でも七井村(現 益子町)・南犬飼村(現 壬生町)・稲葉村(現 壬生町)の雑木林解放等の山林解放闘争が起り、また全国的にも飛び火して行った。また金田村の乙連沢部落の捜査に四百名もの武装警官を動員したのは当時、近くの川西町(現 黒羽町)、佐久山町(現 大田原市)にもその動きがあったのを察知して、事態の拡大するのを防止しようとしたからだというのが研究者の定説になっている。
農地改革に際しても金田村近辺の町村が百ヘクタール余にわたって解放されたが、金田村においては実際の農耕地の地籍が山林登記であったため、わずか六ヘクタールしか解放されなかったという。耕地一ヘクタール以下の農民が約半数を占め、特に乙連沢部落等の開拓地は全戸貧農層に入るという状態で、山に囲まれながら山を持たぬ農家が大部分であった。これらの農家は山林地主に一ヘクタール一万円という謝礼金を支払って落葉を集め、たい肥を作っていた。落葉は農民にとってタバコや換金作物に必要欠くべからざるものであったが、山林有の約三割が村外の不在地主の土地であり、残りの大部分は一部地主の所有にかかるものであった。従って農家の中には三十キロも離れたところに入会地を求めたものも多くいた。
昭和二十七年、この金田村で貧農を中心とした農民による大規模な未墾地解放闘争が起きた。たい肥用の落葉を求めて、不在地主の持つ山林の払下げを要求したのであったが、金田村は終戦直後から共産党の指導による初めての農民組合が結成され、農地委員会にも五人の小作人代表を送りこむ勢いで、組合員千二百名を擁し、百五十名を越える共産党員が活動したのである。終戦直後、ソ連作家シーモノフも実情視察に来たほどであった。
しかし、この闘争も共産党員の内部指導権争いと急進化について行けない農民層の脱落という事態をまねき、一方、村の指導層・在地地主の巻き返しの強化にあい複雑な事態に追いこまれて行った。昭和二十七年四月、乙連沢部落の羽田部落内の銀行山の解放要求に四十名の農民が署名し、五月一日、農民組合再建大会を開き、その席上百五十名の農民が「未墾地解放・不在地主所有山林解放」の決議をして、役場・農協に押しかけ、村長・農協組合長の辞職要求、村の農地委員幹部と農協役員の非常用種モミ横流し事件の責任追求が要求された。五月十八日までには谷中・羽田・小滝・北金丸の各部落からも解放要求が出され、農民二百三十名による銀行山の実地調査が行われ。農業委員会も銀行山総面積百五十ヘクタールを解放適地と指定するに至った。
しかしながら、この運動推進の指導層内部には、在地地主の革新派も何名かいたために不在地主所有山林のみを対象としたという思惑もあり、貧農の不満も蓄積されていたのである。
農業委員会は、この決定をもとに解放申請を県に提出した。しかし県側は急進的な一部共産党員の指導を行き過ぎと見た点もあってなかなか申請を承認しなかった。そこで農民の中にもあせりと戦術転換を要求する声が高まり、指導部の分裂と農民の腰くだけが表面化し、運動自体が行き詰ってきたのである。あせりは内部対立となり、これがさらに暴力事件につながって行った。
農地委員長宅へのふん尿投げ込み事件、役場吏員に対する殴打事件等が相次いで起った。こうして村内にも殺気と対立の気配がみなぎっていたころ、八月八日未明、大田原警察を中心とした武装警官四百名が金田村を強制捜査し、村議を含む三十六人の組合員を暴力行為・傷害の容疑で一斉検挙を行ったのである。この痛撃により金田村山林解放闘争は一挙に壊滅し、闘争は被告等の救援活動・法廷闘争に転化させられたのである。
かくて画期的な金田村事件は終止符が打たれたが、この闘争の刺激により、県内でも七井村(現 益子町)・南犬飼村(現 壬生町)・稲葉村(現 壬生町)の雑木林解放等の山林解放闘争が起り、また全国的にも飛び火して行った。また金田村の乙連沢部落の捜査に四百名もの武装警官を動員したのは当時、近くの川西町(現 黒羽町)、佐久山町(現 大田原市)にもその動きがあったのを察知して、事態の拡大するのを防止しようとしたからだというのが研究者の定説になっている。
(「栃木県歴史年表」)