三・五 ソ連スターリン死去
八・一 軍人恩給復活
八・二八 初の民放テレビ発足
一〇・一七 農林省、「本年度米作は昭和二十年を除き、昭和九年以来の凶作」と発表
テレビの出現により、東京の出来事が、そのまま田舎の茶の間に入り、次第に映画館の観客は減りはじめ、かつては庶民の最大の娯楽であった活動写真は斜陽産業へと変身することを余儀なくされたのである。もっとも、市街地の映画館がすべて、一時に営業不振に陥ったわけでもない。関係者の話によると、経営権の移譲や館名変更などがあったが、テレビ放映開始後も相当に上映を続けており、時には活況の場も見られたりしたとのことである。それにしてもまず、大田原劇場(現 中央一丁目三番所在、昭和三十二年創立)が、三十八年に山崎百貨店となった。太陽劇場(現 中央一丁目一五番、旧第一兄弟館・上栄館)は、四十七年にサウナ太陽にかわったのである。他方、セントラル劇場(現 中央一丁目一番、二十一年創設時東宝劇場)と新朝日座(現 山の手一丁目四番、明治三十八年東京春木座来演、旧名第二兄弟館・朝日座)とは、四十九年現在では興行続行中なのである。
東宝劇場前の商工祭(仮装行列)