昭和四十三年

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 十月二十三日(水)曇後雨、明治百年記念日。三時間授業、第四時HR(ホーム・ルーム)、「明治百年記念について」、「のぞみあらたに」の歌放送(「大女高六十年誌」)。一〇〇年前の本日、当時使用の陰暦では九月八日「……乃ち元を改めて、海内の億兆と與に、更始一新世むと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ」。(太政官日誌、原漢文)とされて以来、一世紀が経過していたのである。
 この十二月十六日、「五〇年間ご苦労さま、終列車に満員の乗客、功績たたえ『螢の光』演奏」との大見出しで、前日の東野鉄道の廃止を、「下野新聞」は左記のように報道している。
 
 黒羽―西那須野間十三・一キロを結んで五十年にわたり地元民の足となってきた東野鉄道はきのう十五日で廃止された。同社創設の地黒羽町では午後二時から駅前広場で記念の式を行ない、大町黒羽町長が長い間地元の発展の支さえとなってきた鉄道の功績をたたえ、時代の流れによって廃止しなければならなくなった鉄道に別れを惜しんだ。このあと矢野秀男東野鉄道専務が「鉄道は廃止してもバスを増発して地元民に不便はかけない」と約束した。
 この日駅前広場や構内には約五百人の町民が集まり、アマチュアカメラマンが活躍する中で花電車の中原敬運転士、大塚康夫車掌に磯節子さん(一八)=大女高三年=と渡辺静子さん(二〇)=黒羽商工会勤務=からそれぞれ花束を贈った。続いて川西小の鼓笛隊と黒羽高校のブラスバンドの〝螢の光〟の演奏のうちに満員の乗客を乗せた花電車が十四時三十三分西那須野駅に向かって出発し、東野鉄道の歴史を閉じた。

(「下野新聞」 昭和四三年一二月一六日付)

 マイカーの利用や自動車輸送に押されて、一〇年ほど前からの累積赤字は一億三千万円と伝えられた。翌年、名称も東野交通株式会社と変更したのである。