人力車は、日本人の発明した交通機関といわれ、人力・腕車・俥等さまざまな名称でよばれていたのである。
明治二年(一八六九)、東京の八百屋鈴木徳次郎・福岡藩士和泉要助・車職高山幸助の三人が協力して創製し、翌年官許を得て、東京日本橋河岸で開業したのが初めであるといわれている。
その構造は、大八車に四本柱を立て、座席を設けた簡単なもので、「西洋腰掛台に小車取附牽歩き候。」(「日本交通史概論」大島延次郎著)と、出願書にはその基本構造が記されているのである。
その後、東京の秋葉大助等により改良がほどこされ、後世の形式の人力車となった。
当時、駕籠にかわる交通機関として急速に普及し、同八年(一八七五)には全国で一一万台を突破し、駕籠はほとんど姿を消した。
車輪は初め木製に鉄輪を付けたものであったが、日露戦争直前ころからゴムタイヤに改良され、乗り心地もよくなり、地方でも急速に利用されるようになったのである。
「佐久山郷土地誌資料」(佐久山小学校所蔵)によると、当時の様子を次のように記している。
「明治六年人力車一台ガ入ッテ人目ヲヒク一台十四・五円 一里八銭」「明治十七・八年ソノ数三十台コノ頃一台二十四・五円、一里十二銭」とある。
なお、同十九年(一八八六)大田原車牛馬員数調べの中には、人力車数一三九台と記され、大田原には下町・成田町に人力車駐車場が置かれ、明治末期の全盛時代をむかえるのである。
車賃については、「同四十年(一八〇七)調一里二十銭、十日間一輌雇切十二円」(佐久山・第二九)と記されている。
当時の米一升は、一六銭程度であったが、個人の所得額(駅夫一日三〇銭)からすれば、たやすく乗れるものではなかったようである。現に利用者は、官公吏・医者、あるいは病弱者等が多く、一般的にはぜい沢な乗物であったのである。