乗合馬車については、「栃木県鉄道史話」(大町雅美著)に次のように述べている。
明治二年(一八六九)五月、はじめて乗合馬車が横浜・東京間で開業されたがその動きは各地に広まった。江戸時代、陸上交通に欠かせなかった伝馬所や助郷などは、陸羽道中の陸運会社開業届によって明治五年(一八七二)七月十日廃止になった。乗合馬車組合は明治五年各地に開業され、関東地域では東京と熊谷・高崎間の高崎運輸馬車組合、東京・八王子間の甲州街道馬車組合、それに東京・宇都宮間の「東京宇都宮間馬車会社」などが設けられた。(中略)宇都宮・東京間は従来三日前後を要したものが十二時間に短縮され、当時の民衆は文明開化を実感できたであろう。
当時にすれば、交通機関の革命的快挙であったにちがいない。
本市における乗合馬車については、「佐久山教育地誌資料」(佐久山小学校所蔵)に次のように記されている。
客馬車ハ明治三十七年暮ニ塩原カラ来テ大田原間ノ営業ヲナシ(当町民ガ始メテ見タノハ明治四・五年頃ニ宇都宮カラ来タノヲ見タ事デアラウ)翌三十八年一月ニ当町ノ熊谷氏が譲リ受ケテ開始シタ(賃銭ハ八銭カラ十二銭トナル)四十一年一月トナッテコノ株ヲ藤田氏ガ引受ケテ始メタノデアル
宇都宮―白河間の乗合馬車開通は明治七年(一八七四)ころとすれば、当市民が最初に見たものは定期馬車であったかどうか定かでない。
大田原―佐久山間の乗合馬車は、大正末期まで運行し、佐久山では前坂入口(荒町)に、大田原では愛宕神社前(現 中央二丁目、旧下町)にそれぞれ立場があった。
なお、大田原から西那須野・黒羽・佐良土方面にもそれぞれ乗合馬車が運行していたが、なかでも西那須野間の往来は第1表に示すとおり最も多く、人車軌道の乗客数(第2表)を加えると、一日平均二五〇名余の人々が馬車や人車を利用したことになるのである。「運輸交通の頻繁なること県下にその比を見ざる所」「(大田原町郷土誌」大田原小学校所蔵)と述べているところをみると、相当数の交通量があり、一〇年後の東野鉄道敷設の原因になったものと推測できるのである。
第1表 乗合馬車の運行状況 |
方面 | 一日往復回数 | 乗車数一日平均(人) | 車台数(台) |
西那須野 | 一五 | 一三〇 | 五 |
黒羽 | 八 | 七〇 | 四 |
佐久山 | 二 | 二五 | 二 |
佐良土 | 一 | 六 | 二 |
(「のびゆく大田原市」社会科研究会編) |
大田原―西那須野間の乗合馬車は、那須軌道が大正四年(一九一五)六月動力の変更を決議し、馬力による軌道を開始した時に、那須軌道に買収され廃止したのである。
次に記すのは、明治二十年(一八八七)における駅伝営業人調べである。
大田原宿営業人調(駅伝営業人)
一 特別陸運請負業 一人
一 通常陸運請負業 五人
一 人馬継立業 一五人
一 旅人宿業 七三人
一 渡船業 四人
一 人夫業 五人
一 荷馬車業 五七人
一 荷積車業 二九人
一 駄牛業 一人
一 駄馬業 五五五人
一 証票下附員 一、〇八二枚
雇人 六九人
車牛馬員数調書
一 荷馬車 五〇両
一 荷積車 三二両
一 人力車 一三九両
一 駄牛 四頭
一 駄馬 八四六頭
以上 明治十九年十二月 員数取調候処相違無之候也
那須郡大田原駅伝取締人
高瀬弥八郎
明治二十年二月十四日
栃木県知事 樺山資雄殿
(大田原・第九三)
明治四十年三月十五日調
旅籠料三食 上等金壱円
中等七十銭
下等四十銭
人力車賃 一里金廿銭
十日一輌雇切
金十二円
荷車賃 四十貫匁積ニテ
一里金廿五銭
一日一輌雇切金一円
荷馬車賃 百貫匁積ニテ一里
金五十銭
一日一輌雇切
金一円
人夫賃 一日一名 金三十五銭
備考 車賃雨天及道路泥濘並ニ夜間ハ五割増
(佐久山・第二六)
それらによると、荷馬車に従事する者が多いことを数字は示しているのである。彼等は明治から大正・昭和初期にかけて物資輸送第一線の役割を担い、のち自動車に譲ることになるのであるが、営業の確立を図るため馬車組合を組織していた。佐久山(岩井町)の温泉神社入口に「勝善神」の碑が建立されているが、台石には、「佐久山町馬車組合一同 明治四十二年一月三日之建」と刻まれている。
なお、野崎停車場開設記念碑(明治三十九年十月建立)の裏面には、建碑協賛者の中に「野崎出入荷馬車連中」と刻まれているところなどから、その優勢さや結束の堅さが察せられるのである。