西那須野―大田原間の人車軌道は、明治四十年(一九〇七)六月二十二日付で特許状が下付され、大橋直次郎(大田原)が社長となり、翌年七月営業を開始したのである。
路線は、西那須野永田区国鉄踏切を起点として、大田原街道の右側を通り、市内に入って今の住吉町アクツ写真館の角を右折し、大田原営林署脇を通って旧仲町に至り、大田原信用金庫前で分岐して、一方は寺町(上州屋旅館付近)まで、他方は下町(薬師堂付近)まで延びていた。現大田原営林署と大田原信用金庫のほぼ中間のところに車庫があり、また信用金庫近くには待合所が置かれていたのである(第1図)。当時の「下野新聞」の記事には、次のように記されている。
第1図 明治期の大田原
既記の如く、西那須野・大田原間の交通機関たる那須人車軌道株式会社は去る十三日より運転を開始したるが賃金は片道五銭往復九銭にて開業匆々にして車室は往復とも日々満員の姿なりと。
(「下野新聞」明治四一年七月一六日付)
なお客車一四台、貨車一五台が動き、乗客数及び貨物運輸数は次のとおりである(第2表)。
第2表 乗客及び貨物運輸状況 |
期間 | 乗客数 | 貨物運輸数 | 一日平均 | |
客数 | 貨物 | |||
駄 | ||||
明治四十二年上半期 | 三三、六九三 | 九、三六八 | 一八六 | 五二 |
〃 下半期 | 三〇、一六九 | 一〇、五三九 | 一六七 | 五七 |
明治四十三年上半期 | 二一、〇三六 | 八、四九四 | 一一六 | 四七 |
〃 下半期 | 二一、〇八六 | 五、一五六 | 一一五 | 三二 |
(「のびゆく大田原市」社会科研究会編) |
車輌説明書(「栃木県史 史料編・近現代七」)によれば、客車の構造は次のとおりである。
乗客定員 八人
長 六呎(一、八二メートル)
幅 四呎六吋(一、三七メートル)
高 七呎十吋(二、三八メートル)
出入口及び御者台が前後に各一か所、重さが一トン、設備材料とも最高品で、よく塗装されており、制動器も二か所あって、安全運転に留意されていたようである。
大正四年(一九一五)七月、那須人車軌道は動力の変更を行うために、軌道動力変更申請書を政府に提出したのであるが、次はその申請書の一部である。
(前略)爾来世運ノ進歩ニ伴ヒ従来使用セル押夫ニテハ一般運輸ニ遅緩ノ傾アルノミナラス、大田原ヨリ西那須野ニ向ヒテハ一体ニ勾配ヲ有スルヲ以テ特ニ時間ト労力トヲ要シ不便不尠候ニ付、今般株主総会ノ決議ヲ経テ専ラ馬力ヲ用イ、尚其ノ間人力ヲ混用シ夜間ニ於テハ人車ノミニ依リ一層ノ便ヲ図リ度候間御許可被成下度(以下略)、
大正四年七月十九日
右
那須人車軌道株式会社
取締役社長 大橋直次郎
内閣総理大臣 大隈重信殿
内務大臣法学博士 一木喜徳郎殿
(「栃木県史 史料編・近現代七」)
当時、すでに塩原軌道は西那須野から関谷まで蒸気機関車が走っており、また東北線敷設以来二〇年も経過していたので、人々にとっては蒸気機関と人力との差は十分知りつくしていたことであり、人車軌道にとって動力変更は緊急の問題であったのである。大正四年六月二十一日午前一〇時より中川屋旅館(山の手一~一)において臨時総会を開いて次のようなことが決議されたのである。
一、第二条中西那須野停車場ニ至ル間ニノ下「人車鉄道ヲ敷設シ」ヲ削リ「軌道ヲ敷設シ人力及馬力ヲ以テ」ト改正ス 但人力及馬力ヲ混用スル能ハサル場合ハ馬力ニ依ルモノトス
一、第三条中社名ノ人車ノ文字ヲ削除ス
一、第三条ニ抵触スル定款中ノ文字ハ之ヲ改正ス
一、右字句ハ取締役ニ於テ修正スルコトヲ一任ス
右各項ノ改正ハ動力変更ニ関シ栃木県知事ノ認可ヲ受ケル日ヨリ効力ヲ生ス
一、軌道動力ヲ人力及馬力ト変更シ車輌改造スルノ件可決
右決議ス
(「栃木県史 史料編・近現代七」)
このようにして申請書が大臣宛に提出され、動力の変更がなされたのである。そして右の史料によると、動力はもっぱら馬力を用い、その間人力をまぜ、夜間にかぎり人力を用いることになったのである。社名も「人車」を削り、「那須軌道株式会社」と改名した。たまたま乗合馬車の買収もでき、旅客を一手に引き受け、経営不振を挽回しようとした方策であったわけである。
そのころ、東野鉄道敷設の計画が具体化され、大正七年(一九一八)四月、西那須野―黒羽間が開通したのである。そしてその間に東野鉄道と那須軌道との間に買収問題がもち上ったのであるが、不調におわったのである。その理由については次のように記されている。
大正五年東野ハ那須買収ニ付相当協議シタルモ、買収価額一万五千五百円ニ付那須ハ不服ヲ申立テ不調ニ終リタリ
(「栃木県史 史料編・近現代七」)
東野鉄道の出現や、自動車の発達により、不況におちいった那須軌道は、運転休止となり、軌道のあとがそのまま放置されていたのである。
のち、大正十四年(一九二五)軌道を撤廃するため、大田原青年団員が手分けして砂利採取をはじめ、その他の費用捻出のため町民から寄付募集を行い、軌道あとの整備が行われたのである(「栃木県鉄道史話」大町雅美著)。