我が国の鉄道は、幕末に江戸幕府によって計画されたが、それはアメリカ資本による植民地政策色の強い鉄道敷設計画であった。
幕府が倒れて政権の交代が行われたが、文明開化を旗印にした新政府は、積極的に鉄道建設に乗り出し、イギリスの援助によって明治五年(一八七二)東京―横浜間が開通し、一日二往復の陸(おか)蒸気が、「汽笛一声」を発したのである。
その後、同十四年(一八八一)には、我が国最初の私鉄「日本鉄道株式会社」が設立され、遙かな東北へ通ずる鉄道敷設事業が進められ、同十九年(一八八六)十月には、宇都宮―那須野(現 西那須野)間が開通したのである。
本市内の野崎駅が営業を開始したのは、同三十年(一八九六)二月で、当時野崎―上野間所要時間五時間五二分、一日上下線各八本が運行されたのである。運賃は、一等・二等・三等の三段階に分れ、切符の色も白色・青色・赤色に区別されていた。そして客車の窓下にも切符と同色の線が描れていたのである。時代は過ぎ、昭和三十四年五月には電化され、つづいて同三十七年六月複線化が完成したのである。当駅を始め各駅の開設により、駅周辺の様子が大きく変化したことはいうまでもない。
東北線以外の鉄道では、大正年間になって、那須郡から茨城県に達する軽便鉄道が計画され、東野鉄道株式会社が設立、大正七年(一九一八)四月に西那須野―黒羽間を開通したのである。さらに、同十一年(一九二二)には小川まで路線を延長し、所期の目的である地域の開発と、旅客・貨物の輸送に貢献してきた。しかし、交通事情の推移と赤字経営が続いて、昭和四十三年(一九六八)十二月十五日、五〇年の貢献の歴史を閉じ、遂に廃止されたのである。
東野鉄道開通と同じころ、矢板・佐久山町民らによって、矢板を起点とし、佐久山を経て馬頭に通ずる、野州電気鉄道の認可申請が提出されたが、これは実現されずに終ったのである。