河岸

801 ~ 803
道路とともに交通路として利用されたものに、内陸では川や沼や湖がある。
本市ではそれに箒川があげられる。箒川は塩原町の北方高原山奥の山間に源を発し、本市佐久山の北を東流し、湯津上村に至って那珂川に合流する。那珂川は古くから海へ通ずる水路として知られ、その支流である箒川にも荷物輸送の拠点となった河岸があった。その河岸場は次のとおりである。
  佐久山河岸  那須郡佐久山宿
  福原河岸   同郡福原村
  佐良土河岸  同郡佐良土村
(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 となっており、なお「明治十四年七月刊 栃木県治提要」によれば、本市関係の河岸は、第10表のとおりである。
第10表 大田原市域内の河岸
河岸名地名川名船問屋数運船水路里程
大五間以上小五間以下近隣河岸東京
福原川岸那須郡福原村箒川佐良土川川岸へ二里十八丁六十七里十八丁
佐久山川岸同郡佐久山宿福原川岸ヘ一里六十七里十八丁

 明治十八年(一八八五)の「那珂川筋回漕業規約」には、箒川筋の河岸数が消えているところから推察すれば、箒川の水運路としての歴史は、同十六年(一八八三)から同十八年(一八八五)の間に終えんを遂げたことになる。
 先代が福原で船問屋を営んでいたという萩原貞夫(小山市在住)によれば、河岸としての全盛期は天保年間(一八三〇~一八四三)のようで、四国まで船脚をのばしていたという。福原河岸から今市の天領へ荷駄を運んだ文書などもあり、興味深い研究資料が所蔵されているが、今は後日の研究に待つことにしたい。
 問屋としての機能を発揮するためには、多くの水夫、荷物を入れる倉庫、客人の宿泊所等が必要なわけで、福原の萩原家の屋敷にはその一部が残っており、当時の面影をしのぶことができる。また、航行に使用したと思われる一メートル有余の錨や帆があり、人目を引いたということである。
 なお、実現されなかったが、那珂川から鬼怒川への連絡水路の構想を、鍋島栃木県令が大田原へ出張のおりに述べている(「印南丈作・矢板武」西那須野町)。
 それは、塩原山下の木材や薪炭と、原街道を南下する会津・岩代・磐城などの産物を集結して、石上から船で東京に至る水路の計画であったと考えられる。そして、この構想がもとになって那須疏水が開削されたともいわれているのである。