渡船

803 ~ 808
当市域を流れる主な河川は箒川・蛇尾川の二流である。それらを通過する街道には、江戸時代五街道の一つに数えられる奥州街道(道中)、脇道として重要性をもつ日光道・原街道や関街道等が要路として利用されてきた。当然ながら河川の渡河が考えられることになる。
 元禄二年(一六八九)の「元禄東遊行嚢」には、「箒川 かちわたりにて洪水にも舟なし」とあるように、爾来江戸時代を経て明治の初期に至るまで、各渡河地点の通過には、徒渉または渡船・仮橋等により渡河したものである。箒川関係の渡しは佐久山河原・沢・薄葉・福原などである。
 いずれも川幅五四メートルほどであり、明治以後は民間人が経営にあたり、船賃を徴収していたのである。

福原渡船場の図(萩原貞夫氏蔵)


明治30年蛇尾川の仮橋(金沢精二氏提供)

 次に記すのは福原の渡船賃表である。
  大字福原渡船賃表
  黒羽街道
  一箒川渡船
     此賃銭
  一金壱銭     人壱人荷持共
  一金壱銭五厘   人力車壱輌車夫共
  一金壱銭五厘   荷車壱輌車夫共
  一金壱銭五厘   索駄手間壱疋に付共
  一金壱銭五厘   両拭壱荷担夫共
  一金弐銭     駕籠壱個担夫共
  一金弐銭     長持壱個担夫共
  一金弐銭     荷牛馬車壱輌に付き
    但日没後又ハ日出前賃金二割増
   明治弐拾五年八月六日
                                   願人
                                       小河原秋太郎
(佐久山・第二九)

 船による渡河は、常時行われたものではなく、増水により渡河困難な場合とか、仮橋が流出した時などに利用されたようである(「佐久山教育地誌資料」佐久山小学校所蔵)。
 なお、蛇尾川にも当時渡船があった。賃金表によれば、舟渡しと橋渡しがあっていずれも代金を徴収していたのである。この費用は橋修理の費用とか、河床の整備などに使われていたのである(第11表)。
第11表 渡船及び賃橋
街道名町村名渡船賃橋
個数賃銭個数賃銭
陸羽街道大田原町
国道野崎村7円35銭9円32銭
日光街道野崎村5円50銭4円62銭
仮定県道大田原18円00銭
佐良土より佐久山15円00銭
(「那須郡統計資料」明治32年)


蛇尾川船渡し領収証と版木
(斉藤進氏蔵)

 新時代の脚光をあびた人力車と旧時代の駕籠が同居し、交通機関の過渡期を想起させるのに十分な史料である。
 次の史料は、大田原宿の人が戸長へ提出したものである。
 
     証
          橋渡
   一金 一厘   人一人
   一金二厘    タレ山籠 一ケ
   一金 六厘   人荷馬車
   一金 八厘   同二頭 乗人夫共
   一金 二厘   人力車一両乗人車夫共
   一金 二厘   乗本軽馬 延口取共
   一金 三厘   引戸籠    一丁
   一金 四厘   長捧籠  一丁
   一金 三厘   長持   一サヲ
   一金 五厘   大長持  一サヲ
   一金 二厘   両掛   一荷
 
   右ハ陸羽道蛇尾川深浅平均
 
     証
   一金 六厘   舟銭乗合 一人
   一金 六厘   荷物 一駄
   一金一銭二厘  人力車一両車夫共
   一金一銭二厘  荷車一両車夫共
   一金一銭二厘  タレ山籠一丁夫共
   一金一銭八厘  引戸籠一丁夫共
   一金  四厘  長捧籠一丁夫共
   一金一銭八厘  長持一サヲ夫共
   一金三銭    大長持一サヲ夫共
   一金 九厘   両掛一荷夫共
 
   右ハ明治十年十一月御許可高札取調品相違無之候也
                           那須郡大田原宿
                                山本薫造
  明治十九年五月廿日
                             戸長 山崎章
(大田原・第九三)