東北本線と大田原

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昭和四十六年十一月、東北新幹線停車駅設置大田原期成同盟会より設置運動の協力方お礼として、次のような一文が市民に配付されたのである。
 
市民の皆様、東北新幹線県北停車駅設置運動に際しましては、市民大会や署名運動又は幹部の方々の再三に亙る関係官庁への陳情等市民こぞって設置運動に御協力を賜り吾々一同深く感謝申し上げます。
皆様方の情熱溢れる強力な運動の御支援により県北駅も大田原市にとっては誠に有利な地点に決定をみまして御同慶に堪えない次第であります(中略)。
思えば明治十八年東北本線建設のとき吾が大田原は鉄道の布設を反対して悔を千載に残した苦しい経験があり、この事より国道四号線にも遠ざかり市の発展に大きな損失を致しました(以下略)。

 とあるが、東北新幹線の県北駅は当初黒磯駅併置という線が強く、本市は全市民一丸となって、大田原市の発展に直結する地点に新幹線の停車駅を誘致しようと運動を展開し、ついに東那須野駅併置の決定を見て、この誘致運動は一応の終止符が打たれ、現在に至り五十七年六月東北新幹線は盛岡までが開通するのである。
 この文中「明治十八年東北本線建設のとき吾が大田原は鉄道の布設に反対して悔を千載に残した」とあるところに問題があり、抵抗を感じるのである。
 西那須野町が開拓一〇〇年を記念して発刊した「西那須野町百年のあゆみ」には、次のように記されている。
 
明治十九年の鉄道開通は西那須野発展の大きな布石でした。そもそも、当初の計画では鉄道は大田原へ引くはずだったとか。ところが大田原では鉄道なんかできると町が衰微すると大反対――そこで、西那須野に計画が変更されたのだそうです。以来、鉄道は賑いと繁栄を運び続けています。

 このような伝説が生きているのである。以下このことについて論じてみる。
 鉄道建設の発端は、明治二年(一八六九)十月、新政府の外務省から太政官に提出された建議書は「是非トモ両京大阪ノ間又ハ東京ヨリ陸羽辺ノ間迄車道取開度左候ハバ……」とあり、新政府が幹線官設の構想により、東北本線建設を進めていたようであるが、実現するには至らず、同十四年(一八八一)になって初めて日本鉄道会社が設立され、東京―青森間の工事を行うようになるのである。
 同社の創設の状況をみると、同十四年一月右大臣岩倉具視を訪れ、「鉄道会社利益保証法」の発布について建議書を提出し、鉄道敷設の必要なことを建議したのである。その内容を要約すると次のような主旨である。
いま文化は大いに進み、風俗、産業も開けましたが、必ずしも人心は安定し、豊かであるとはいえません。それは貿易で輸入が年々超過し、十三年間に輸出の二倍も増加して、わが国の財貨が外国にいちじるしく流失しているためであります。これを補正するには輸出を盛んにすればよろしいが、そのためには鉄道を盛んにして、各地の物資を交換あるいは集積して、産物も豊富にし、できた製品をどしどし港に輸送して、貿易の収支の均衡をはかればよいわけであります。
まえに華族、士族の定禄を廃したとき、金禄公債証書を発行し、その額は一億八千万円にも及びました。この金で産業をおこし、国を富ますために、わずかに国立銀行をつくっただけであります。それも設立後四年たちますが、なんら国家のために運用されていません。坐して食えばたちまち空しく無くなってしまいます。いまここに鉄道をおこして、沿線未毛の地に農工を発展させることが肝要で、さらに遠く北海道までも開発すべきであります。政府は以前に東京―前橋間に鉄道の敷設を計画しながら、財源の都合で中止されましたのは遺憾にたえません。私たちはこのさい、ぜひとも鉄道敷設を奨励し、鉄道沿線のことをはかるのが良策であります。政府でもこれに意をとめられて、ぜひ鉄道会社条例を制定公布されたいと思います。しかし鉄道敷設は難事業ですから、国民はこの事業によって容易に利益をあげることができるなどとはほとんど信用していません。そこで政府は鉄道会社保護法を作って、大いに便益をはかることを望みたい(以下略)。

(「肥田浜五郎の生涯」新人物往来社)

 このような理由から、政府では民間の鉄道事業に利益保護を与えられることを望みますと建言したのである。岩倉具視は全面的にこの建言には賛成したのであった。これらが発端となって、「日本鉄道会社」は、明治十四年(一八八一)十一月、わが国最初の私設鉄道会社として誕生したのである。日本鉄道会社の成立されたのも、政府の華士族授産という目的に沿ったものであることが知れよう。
 この日本鉄道会社創立にあたり、発起人として「西郷従道」が名をつらねているのである(「元帥西郷従道伝」)。また、「矢板武」(のち辞退)が株主総会において理事委員に選ばれている(「ものがたり東北本線史」日本国有鉄道)のである。これらは何を意味するものであろうか。西郷従道は明治政府の枢要な地位にあって、十四年には農務卿に任ぜられるや、従兄で当時陸軍卿の「大山巌」と共に、那須野が原の開墾を企図し、印南丈作・矢板武らの「那須開墾社」の拝借地と大田原との中間に、政府が模範農場設置の意図をもって、保有していた九〇〇町歩(九〇〇ヘクタール)のうち、五〇〇町歩(五〇〇ヘクタール)を政府から一町歩(一ヘクタール)金一円(一五年賦償還)で払下を受けたのである。これが大山農場であり、加治屋開墾場なのである。時を同じくして、当時山形県令であった三島通庸が隣接一、〇〇〇町歩(一、〇〇〇ヘクタール)を拝借し、肇耕社と称して開墾事業に着手したのを始めとして、青木・佐野・毛利らの開墾場が競って設立されたのである。
 日本鉄道会社が発足し、工事が行われるようになると、その沿線各地はさまざまな波紋が起こったようである。鉄道が敷かれては困る者、金もうけを企む者、文明開化に浴すると説く者、鉄道が便利であることを認めながら、利害関係から反対を唱える者もあったであろう。
 当時の大田原は、早くも那須郡の政治の中心地であったのである。明治七年(一八七四)四月に栃木県庁大田原支庁が置かれ、同十一年(一八七八)には那須郡一円を所管とした郡役所に変り、同八年(一八七五)大田原警察出張所は同十一年に大田原警察署となり、大田原税務所の前身である収税部派出所が同十八年(一八八五)に開署されるなど、県北の中心都市としての機能を備えていたのである。一方、西那須野町は那須野村と称し、大田原宿外一か村として戸長役場は大田原に置かれていたのである。
 ここに鉄道建設のことが問題にのぼってきたわけである。「ものがたり東北本線史」によると、「東北本線のルートはどこを通るかということは、日本鉄道会社が発足するころには大体決っていたようである。それが現在の東北本線と同じ経路であったかどうか疑問であるが、あまりはっきりしない」と記され、「すでに政府の手によって二回以上にわたって路線調査が行われたから、これによったことは確かであろう。」と記しているのである。この二回以上の路線調査とは最初は明治五年(一八七二)工部省によって東京青森間を測量したもので、奥州街道沿いに北上して青森に達している。つぎが同九年(一八七六)に行われたが、宇都宮に向う鉄道は大宮から分岐するのが最も良いと報告している。もう一回が同十三年である。これらを基準として東北本線のルートを決定し「街道沿いの人口の多い都市を結ぶ、急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける」などとしたのであると前掲書は記している。鉄道建設は本来の目的である街道沿いの町を結び産業の振興を促すことを考えていたのである。
 明治十八年(一八八五)七月十六日には中田―宇都宮間が開通したのである。
 巷間に伝えられている「汽車の煙で稲が実らぬ」「火の粉で火事になる」「鶏が卵を生まなくなる」といった風説を、私たちの祖先や先輩たちが、そして住民が、もっていたであろうか。論をまたず、今まで記してきたような事項等を勘案すると、明治二十五年ころまでに一万町歩(一万ヘクタール)の那須野が原を寸地余すところがないよう競って開墾場を設立した明治政府の高官と、それにつながりをもつ人達が実力と政治力をもって、鉄道路線計画変更を強引に行い、風説を流し、鉄道を農場近くへと敷設したように推測される。
 西那須野駅敷地は大山巌が政府が模範農場地として計画していたものを安く払い受けた土地であり、岩倉具視に「鉄道会社利益保護法」建定の建議書を提出し、これによって政府は保護政策として「鉄道軌道・停車場その他の必要な敷地の官有地分は無代価で下付され、民有地の分は政府で相当の代価をもって買いあげのうえ、会社へ払下げられること」(前掲「肥田浜五郎の生涯」)とあり、政府が安く払い下げた土地を、逆に相当の代金をもって買わされた結果になったのであろう。
 同十八~十九年(一八八五~一八八六)陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道、栃木県令から警視総監になった三島通庸、ドイツ公使(宇都宮―白河間のレールをドイツより輸入するときの公使)青木周蔵など明治の元勲との深いつながりがあったといえるのである。
 東北本線は、同十八年九月宇都宮―白河間の測量を開始、翌十九年三月には工事を開始したのである。そして同年十月一日には宇都宮―那須野(現 西那須野)間、十二月一日には黒磯までが開通したのである。
 次に記すは、栃木県知事から大田原宿戸長役場宛に通知された宇都宮―白河間測量の協力依頼文書である。
 
勧雑第四十七号
    那須郡大田原宿戸長役場
今般日本鉄道会社之依頼ニ応シ実地研究希宇都宮白河迄鉄道線路測量之為別紙記名之者工部大学校ヨリ派遣候条諸事不都合無之様可取計此旨相達候事
  明治十八年四月廿一日

                                   栃木県知事 樺山資雄
 
   (別紙省略)
(大田原・第八七)

 との書類が残されている。のち同年八月には、土地の買収及び立木伐採等の調査に係官が派遣されているのである。