所在地 栃木県那須郡野崎村大字薄葉
位置 上野駅起点 一四六粁五二〇米
開業 明治三十年二月二十五日
とある。東北本線の宇都宮―黒磯間が開通したのは、明治十九年(一八八六)であり、初めは矢板駅と黒磯間には、西那須野駅(当時は那須野駅とよぶ)のみであった。そのころの野崎駅(薄葉二、二三三番地)周辺は、人家はなく、赤松や雑木林・すすきなどの生い茂る荒涼たる原野で、駅を設置するほどの価値を有しているとはいえなかったようである。
その後、鉄道のもたらす恩恵の何たるかを知った人々は停車場開設を叫び、その努力が実り野崎駅が誕生したのである。
同三十九年(一九〇六)十月、「鉄道国有法」が施行され、日本鉄道株式会社は国の経営に移ったのであるが、このことを記念して、駅前構内に「野崎停車場開設記念碑」を建立した。碑文には、開設提唱者として伴野岸三・長島岸平・山本幸太等の名があげられているが、当時の村長(二代)渡辺勇二のはたらきも大きかったのである。
次に碑文を記す。
野崎停車場開設記念碑
野崎之村帯箒川控那須野土壌膏腴人烟滋稠多穀菽莨桑之産薪炭木村之富而当常毛磐陸之要路矣曩日本鉄道会社創布東北線起東京達青森置車站無慮一百此地亦宜為枢要停站之一而偶不得与其選也郷邑以為深憾矣明治二十八年伴野岸三長島岸平山本幸太等提唱車站開設之議同志和而賛者十有七人皆謂交通聚散是寔世益所関固不為少尠焉開駅之事非独一村之利害而已及潜心計画謀之於鉄道会社遂投二千余金購求所要地一万二千三百歩以其四寄贈会社以其六為公道会社亦諒其志新置車站至二十九年十二月経営方成屋舎建築道路開通全竣其功矣三十年二月二十五日汽車往復者初停於野崎駅於是運輸之便適其宜郷邑皆喜享其利今茲明治三十九年十月会鉄道国有法実施有志胥謀建石勒其顛末以諗後人云
野崎之村帯箒川控那須野土壌膏腴人烟滋稠多穀菽莨桑之産薪炭木村之富而当常毛磐陸之要路矣曩日本鉄道会社創布東北線起東京達青森置車站無慮一百此地亦宜為枢要停站之一而偶不得与其選也郷邑以為深憾矣明治二十八年伴野岸三長島岸平山本幸太等提唱車站開設之議同志和而賛者十有七人皆謂交通聚散是寔世益所関固不為少尠焉開駅之事非独一村之利害而已及潜心計画謀之於鉄道会社遂投二千余金購求所要地一万二千三百歩以其四寄贈会社以其六為公道会社亦諒其志新置車站至二十九年十二月経営方成屋舎建築道路開通全竣其功矣三十年二月二十五日汽車往復者初停於野崎駅於是運輸之便適其宜郷邑皆喜享其利今茲明治三十九年十月会鉄道国有法実施有志胥謀建石勒其顛末以諗後人云
官制・所属の変更及び沿革等について、前掲「野崎駅沿革誌」には、次のように記している。
明治三十九年十一月一日
当駅ハ元日本鉄道株式会社ノ経営ニ属シタリシガ鉄道国有法実施ノ結果政府ニ買収セラレ鉄道作業局ニ引継ガル
明治四十年四月一日
官制改正鉄道作業局ヲ廃シ帝国鉄道庁置カル
明治四十一年十二月五日
官制改正帝国鉄道庁ヲ廃シ鉄道院置カル
大正二年五月五日
鉄道官制ノ一部ヲ改正シ東部鉄道管理局ト中部鉄道管理局トヲ合併シ東京鉄道管理局ト改称セラル
大正四年六月二十三日
鉄道院官制ノ一部ヲ改称シ東京鉄道管理局ヲ東部管理局ト東部鉄道管理局ト中部鉄道管理局トニ分割セラル
当駅ハ東部鉄道管理局ニ属ス
大正七年四月一日
当駅ハ福島営業事務所ニ属セシ処宇都宮運輸事務所新設ニ伴ヒ同所所属トナル
大正八年五月一日
鉄道院官制ノ一部ヲ改正シ従来ノ鉄道管理局所管区域ヲ分合シテ東京・仙台・札幌・名古屋・神戸及門司鉄道管理局ガ設ケラル
当駅ハ東京鉄道管理局ニ属ス
大正九年五月十五日
官制改正鉄道省官制及鉄道局官制ガ公布セラル 鉄道局所在地及其所管区域ハ従来ノ通リトス
当駅ハ東京鉄道局宇都宮運輸事務所ニ属スルコト元ノ如シ
昭和二十五年八月一日
機構改革ニ伴イ東京鉄道局宇都宮管理部廃シ、高崎鉄道管理局所属トナル
当駅ハ北関東営業事務所及高崎地方経理事務所管制トナル
昭和二十五年一月十日
箒川橋梁上において、二三時二六分下り第一五九列車の最後部ワク脱線
昭和三十三年十月三十日
川田工業専用線使用開始
昭和三十七年四月十六日
野崎駅における貨物及び配達の取扱は四月十五日限り廃止する。但し接続専用線発着車扱貨物に限り取り扱う。
昭和三十七年六月七日
野崎・西那須野間複線自動閉そく式運転となる。
昭和三十九年九月二十五日
野崎・矢板間複線運転開始
昭和四十年三月一日
構内営業開始 山和タクシー 東野鉄道
と記され、ひとり野崎駅の沿革ばかりでなく、日本鉄道史の一端がうかがえる。
なお、当駅に関する隣接町村への連絡について、同誌は次のとおり記している。
(一)大正十五年十月、駅前より佐久山に至る八キロ間、乗合自動車(経営者 石崎自動車)午前八時五十五分より午後六時四十五分まで各下り列車に接続するように六回運転、佐久山迄片道大人運賃二十五銭
(二)駅前より大貫に至る乗合自動車、岩瀬自動車に於て営業継続中のところ、昭和七年九月営業不振のため廃止となる。
(三)佐久山に至る八キロ間、昭和十二年矢野自動車に於て営業開始、翌年一月十四日再び運転休
(四)親園北区に至る八キロ間、昭和十四年二月一日乗合馬車営業開始、同年四月十八日限り運行中止、経営者坂内兼吉、運行回数三往復、料金野崎・親園間片道三十銭
(五)昭和三十五年十月一日 親園地区バス路線延長運転、上沼より滝岡実取を経て野崎駅に至る延長九・一キロ、運転を開始する、経営者 東野鉄道株式会社運転回数三回
旅客関係については、第1図に示すとおり開駅当初から各年度を通じ、特に増減を誘致するものもないので、大きな変動は見られなかったようである。大正十五年(一九二六)十月佐久山へ至る乗合自動車及び大貫へ至る乗合自動車の運行によって、一時は増加したが、昭和七年自動車運行の廃止により旅客数も減少していったのである。
第1図 乗降人員調
(野崎駅資料)
しかし日中事変以来乗降者が急増し、「十割ノ増加ヲ見タリ」と駅務報告がなされている。
なお、戦後になり、昭和三十二年には川田工業(株)が誘致工場として操業し、さらに野崎工業団地の造成もなり、同五十四年四月東芝電気(株)那須工場(上石上)等の企業が操業するに至り、住宅団地も建設され、通勤・通学者の乗降が増加してきているのである。
貨物関係については、従来は米・薪炭・木材等の定貨のみで、各年度を通じ増減はなかったようである。昭和十一・二年度に国道箒川の野崎橋架設工事にあたり、セメント・鉄材等の発着が増加し、また、毎年三回開催する沢の馬市では、多少の馬の運送等の発着があったが、積卸「ホーム」の設備がないために至急設備改善を要請したということである。
なお、同二十五年における貨物輸送関係、同三十六年以降の旅客及び貨物輸送状況は、第1~3表に示すとおりである。
第1表 昭和35年貨物発送到着年間表 |
発送 | 到着 | ||
小口扱 | 件数 | 1,705 | 853 |
個数 | 2,779 | 2,638 | |
重量 | 79t | 116t | |
車扱 | 件数 | 438 | 364 |
個数 | 492 | 362 | |
重量 | 7,555t | 6,211t | |
合計 | 件数 | 2,143 | 1,217 |
重量 | 7,634t | 6,327t |
(「のびゆく大田原市」社会科研究会編) |
第2表 発送到着品の主な品名,数量 |
発送品 | 到着品 | ||||
品名 | 数量 | 備考 | 品名 | 数量 | 備考 |
米 | 269t | 鋼材 | 1,931t | 川田工業 | |
木材 | 821t | セメント | 290t | ||
麦 | 520t | 肥料 | 2,101t | ||
川田関係 | 290t | 機械 | 171t | 川田工業 | |
橋桁 | 298 | ||||
木毛,セメント板 |
(「のびゆく大田原市」社会科研究会編) |
第3表 旅客および貨物の輸送状況 |
区分 | 旅客 | 貨物 | ||
乗車 | 降車 | 発送(トン) | 到着(トン) | |
昭和36 | 210,847 | 210,406 | 4,819 | 6,419 |
〃 38 | 265,220 | 265,951 | 2,222 | 3,962 |
〃 40 | 288,964 | 288,980 | 2,781 | 14,632 |
〃 45 | 312,658 | 313,023 | ― | ― |
(「市勢要覧 大田原」1966・1972」) |