箒川鉄橋にさしかかり半ばを過ぎようとした時、暴風が北方より襲い、重量の軽い客車が貨車との連結器から離れ、転倒墜落し、客車は激流の中に投げ出され、死亡者一九名、重傷者六名、軽傷者三〇名に及ぶ、鉄道はじまって以来の大惨事を起したのである。
当時の「下野新聞」は大惨事として、その模様を次のように記している。
「転覆せる客車の河中に没せるさまは一見慄然たる計りにて八輌中四台の客車は粉微塵に砕かれ其の細片をも認めず急激の流し去る所となりしが他の四台は其全部を三四片に砕かれ激流中に埋まり(中略)
寄州に転落すると逆立しそのまゝ原形を存ぜる」、(以下略)。(「下野新聞」明治三二年一〇月一〇日付)
箒川鉄橋列車転覆の図
救助に当って警察官・消防夫二〇〇余人が数隊に分れて、川下二〇キロに及ぶ大捜索を実施し、臨時列車を発して被害者や医者・看護救援者の輸送、現地医師団の救助活動等めまぐるしい状況であったのである。
後日、日本鉄道では、救護活動に尽力した人たちを駅長に命じて調べさせているが、その中に毛利大田原病院長・同町田崎医院長・佐久山荒井啓三郎の名が記載されている。
事故発生後、遺族から損害賠償請求の訴えが出され、裁判となったが、「日本鉄道株式会社」には「損害賠償の責任あり」の判決が下っている。
なお、捜索に出動した佐久山消防組の活動状況が、次のように記されている。
十月七日暴風雨ノ為メ箒川出水ニ付キ消防組ヲシテ川除材木ノ取片付ヲナサシム当日汽車鉄橋ヨリ転覆死傷者数多有之旨警察官ノ急報ニ接スルヲ以テ本町消防組惣出ニテ同晩ヨリ翌々九日ニ踄リ川筋ヲ捜索セシム其ノ結果死人四人衣類等数点ヲ見出シ夫々引渡シノ手続ヲ為ス
(佐久山・第四四)
翌年、本市薄葉及び平沢の住民が発起人となって、汽車転覆遭難者の菩提を弔うために、周辺の住民から浄財を募り、箒川河畔に大供養塔を建立したのである。供養塔には建碑委員蛭田儀平(薄葉)ほか九名、発起人平沢・薄葉二〇名、多くの寄付者名が刻まれている。中でも福島県人、老人一同、女子一同等の文字が刻まれているところから、遭難関係者も加わり、地区民全員の大事業であったものと推測されるのである。
昭和六年十月には、事故発生から三三回忌にあたるため、下野史談会が主催し、野崎村長橋本益平・宇都宮駅長・下野新聞社が後援となり、追悼の大法要が行われ、前掲の供養塔に並んで記念碑が建てられたのである。その碑文には次のように刻まれている。
明治三十二年十月七日箒川鉄橋ニ於テ汽車顛覆即死者十九名ヲ出ス是レ未曽有ノ惨事ニシテ悲歎ヲ極ム昭和六年十月七日三十三年忌ニ相当スルヲ以テ吾等相謀リ供養大法会ヲ営ミ恭ク其霊ヲ弔フ
昭和六年十月七日 田代黒瀧誌
ちなみに、撰文者の下野史談会長田代黒瀧(善吉)は、その時の遭難者の一人で、河中を流され、九死に一生を得たとのことである。