その計画は、西那須野を起点として、大田原・黒羽を経て大子に至る鉄道を本線とするもので、途中川西で分岐して、小川を経て烏山に通ずる枝線をもつ軽便鉄道計画であったのである。
起業の効用については、茨城県知事が東京府知事の回答書の中で、「地方ノ富源開発」をかかげ、さらに、「地方民ノ期待シツツ居ル所ニシテ、本鉄道ノ敷設ヲ見ル暁ハ地方ノ便益少ナカラズ」と述べている。
事実、八溝地帯は、古くから全国的に有名な良質のスギ・ヒノキ材の生産地であり、黒羽を中心に大きな山林所有者がいた。第一次世界大戦で空前の木材ブームを呼び、材木輸送は急を告げていたころでもあったので、鉄道敷設は国益に効することであった。
免許状が下って後、同五年(一九一六)に工事に着手したのである。しかし第一次大戦後景気が一変して財政不況に陥ったため、当初の計画を縮小し、西那須野―黒羽間(一三・一キロメートル)が建設されることになったのである。
工事施工にあたっては、これを四期に分け、第一期工事は西那須野駅から大田原を経て川西町(現 黒羽町)に至る路線とし、その中で最も難工事と思われるのは蛇尾川の架橋と大田原竜頭公園下のトンネル工事であった、蛇尾川鉄橋工事は四〇、〇〇〇円で大島組が請負い、同五年十二月起工、次いでトンネル工事は八二メートル一四、九〇〇円の工事費で施工されたのである(総工費五六〇、六〇〇円)。
東野鉄道機関車と定期券
東野鉄道大田原神社下トンネル完成記念(早川正雄氏提供)
その後、工事は順調に進み、同七年(一九一八)一月には試運転が行われ、同年四月十七日から営業が開始され、広漠たる那須野が原に黒煙を吐いて走る機関車が登場したのである。
その後、大正十一年(一九二二)一月、川西から湯津上を経て、那珂村(現 小川町)に至る一一・三キロメートルの延長線を計画着手し、同十三年十二月にはこれも完成したのである。
当時の停車場は、西那須野・大田原・金丸原・黒羽・湯津上・佐良土・那須小川の七駅であった。各駅までの運賃(三等)は次のとおりである。
西那須野~大田原 一四銭
〃 ~金丸原 三〇銭
〃 ~黒羽 四〇銭
西那須野~那須小川 七三銭
二等は三等の七割五分増
(大正一三年「時刻表」)