路線と停車場の一部廃止

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大正末期から昭和初期にわたっての経済不況により、大子までの路線延長計画は望みなきに至り、さらに昭和十二年の日中事変は我が国を戦争へと進ませ、国内は軍事体制を強化してきたために、その影響を受け、同十四年二月付で黒羽―小川間の路線廃止の申請書を提出したのである。
 この路線は開設以来十数年になるが、成績も良くないため、営業を廃止して財産整理を行い、レールその他を売却することによって、現在多額にのぼる負債を整理し、残った区間の経営を堅実にすることになり、同年六月一日より廃止となったのである。
 なお、同八年八月経営の好転を図って新設した本市関係の中田原駅・成田山前駅は、同十五年九月に次のような理由で廃止となったのである。「成田山前停車場ヲ一定時刻ニ利用スル学生五〇名ヲ除キテハ各停車場共之カ利用者僅小ナル実情ニアリ、且ハ全区間乗合自動車路線併行スルヲ以テ之ガ廃止ニ伴フ不便モ尠少ナルノミナラス、燃料節約並運転ノ円滑ヲ計ル意味」
               (「栃木県史 史料編・近現代七」)
 なお、第4表は設置したときの月日及び理由である。
第4表 廃止セムトスル停留場ノ設置月日及理由
停留場名設置月日設置ノ理由
成田山前昭和八、八、一七成田山参詣客及中学校生徒通学ノ便ヲ図ルタメ
中田原一般旅客誘致並地元民ノ希望ニ依リ
(「栃木県史 史料編・近現代七」)