開通当時の旅客輸送は、一日五往復程度で乗降客二〇名位、貨物はほとんどなかったようである。大正末期から昭和にかけて漸次増加し、運賃は、大田原まで七銭、黒羽まで五銭であった。
昭和五年金丸原飛行場ができると、軍人・軍属の出入が増え、荷物の発着も次第に増加し、同十年代には軍事的に重要な駅となってきたのである。同十五年の営業報告書によると、収入の増加の理由として、「旅客ニ於テハ沿線神社仏閣祭日ノ参詣及ビ時局関係ノ増加ト学徒ノ金丸原秋季野外教練ニ依ル輸送ノ多カリシニ因ル」とあり、軍事教練のために当駅を利用している。さらに、飛行機の部品・その他の軍需品が発着し、ホームも特別に設置されて、一か月一万トン以上(一日平均三〇〇トン)の貨物取扱量があった。同四十年には経営合理化が進められ、無人駅となり、東野鉄道が廃止された現在では、農協倉庫及びカントリーエレベーター敷地等に利用されているのである。
次は、同三十五年の乗降客人員ならびに貨物取扱量である。
乗降客人員 年間九一、五四〇人
一日平均 二五〇人
輸送トン数 年間 一、六一五トン
発送 米・麦
到着 肥料
(「のびゆく大田原市」 社会科研究会編)