大正年間の県北の鉄道を概観するとき、南北に東北本線が走り、西那須野と矢板から各一本ずつの私鉄が延びているに過ぎないが、明治期から大正期にかけて多くの先人たちは、この地方に鉄道敷設を夢みてきた。「野州電気鉄道」もその一つであるが、この路線も夢と消え去った路線の一つである。
当線の計画は、矢板駅を起点として、佐久山・小川・馬頭・大子へ通ずるもので、八溝山系の資源の開発を目的とし、県の横断線として、また東京へ通ずる線としては、むしろ既成の東野鉄道より価値があったものと考えられていたのである。
大正七年(一九一八)十月、矢板町・馬頭町の有志、及び関係ある町村の有志六二名の発起によって、矢板―馬頭間に電気鉄道の敷設が計画されたのである。認可申請を提出し、委員も選出され、第一期線は矢板―馬頭間、第二期線は馬頭―野口間、第三・第四と進めて大子より高萩まで延長する遠大なものであったのである。