路線は大田原―黒羽間を運行し、車は外国産で木製のボデーをのせ、いすはスプリングなしの粗末なものであったといわれている。本市域にとっては最初の乗合バスであったので、人目を引いたことと推察されるのである。
同九年(一九二〇)阿久津正(大田原)がこれを買収し、営業を続けてきたが、さらに同十四年(一九二五)八月、阿見自動車商会(大田原・阿見喜市)に買収されたのである。大正十四年刊「大田原小誌」によれば阿見自動車商会について、次のように記してある。
(前略)大正十四年八月、東毛自動車株式会社、那須軌道株式会社を買収し大田原・西那須野間、大田原・佐久山間の自動車運輸を営み居れり(以下略)。
なお、昭和七年七月、那須軌道株式会社が営業休止の処置を受けた時、那須軌道の同一系会社である東毛自動車について、次のように記されている。
東毛自動車株式会社
資本金五万円
大田原・黒羽間六哩
十六人乗二両 五人乗リ一両
他ニ新井自動車部ノ乗合自動車営業アリ(西那須野・大田原間十三哩 十二人乗四両 一日往復十六回)
資本金五万円
大田原・黒羽間六哩
十六人乗二両 五人乗リ一両
他ニ新井自動車部ノ乗合自動車営業アリ(西那須野・大田原間十三哩 十二人乗四両 一日往復十六回)
(「栃木県史 史料編・近現代七」)
これによると、大田原―西那須野間は往復一六回運転されている。よって東野鉄道利用者をふくめると、相当数の利用者があったものと推測されるのである。
同八年五月、企業の統一化により、その業全体を関東自動車に買収され、さらに同年十二月、東野鉄道に買収されたのであるが、その内容は、西那須野―黒羽線と大田原―佐久山線、自動車及び待合所設備など旅客自動車運輸事業の一切の買収であったのである。
なお、東毛自動車の営業所は、新富町一丁目(現 原眼科)にあって、のちに東野鉄道自動車部の営業所となるのである。