その後、同八年十二月、西那須野―黒羽線と大田原―佐久山線の運輸事業の営業権と、中古車及び待合所設備などを、関東自動車株式会社から譲り受けたことは前節末に掲げたとおりであり、営業を拡張したのである。その内容は次のとおりである。
昭和八年十二月二十七日左記旅客自動車運輸事業ヲ東野鉄道株式会社ヘ譲渡シタリ
一、西那須野―黒羽線 十六粁
二、大田原―佐久山線 八粁
三、自動車(乗合中古車) 四両
四、待合所設備 一切
(「栃木県史 史料編・近現代七」)
東野鉄道第三七回営業報告書(昭和八年十二月~昭和九年五月)には、設立後数年当時の様子を次のように記録している。
鉄道営業ニ甚大ナル影響ヲ及ホシタル競争線西那須野・黒羽間ノ乗合自動車ヲ鉄道擁護上買収スルコトトナリテ一月中旬ヨリ兼業路線ハ拡張セラレ(中略)西那須野・大田原間、大田原・黒羽間、大田原・佐久山間、ノ三線トシテ営業ヲ継続シ永年大ナル影響ヲ蒙リタル本鉄道主要路線ノ交通ハ全ク当社ノ手ニ帰シ(以下略)
このころより東野鉄道では自動車営業に意を傾け、やがては社業の中心的位置をしめるようになっていくのである。
同十年上半期の収入をみると、
鉄道業 五〇、六六六円八四銭五厘
自動車業 一一、三一八円一三銭五厘
(「昭和一〇年度東野鉄道第三九回営業報告書」)
とあり、自動車部の占める割合は一八パーセントである。同十二年、日中戦争が勃発し、戦時体制下における国内政策は、生産力の拡大、物価の抑制、輸出の振興等におかれ、運輸面においても、その政策は軍事品輸送優先、燃料の節約にあらわれてきた。代用燃料車が登場したのは同十四年ころである。
東野バス大田原営業所
同十九年四月、戦時下の国内輸送の一元化を意図した政府の政策により、矢野自動車商会・那須合同自動車株式会社・板室温泉自動車株式会社等と合併し、東野鉄道株式会社の名称で輸送にあたったのである。