ガソリン車に代って薪炭ガス発生炉を装置した車両が出現したのであるが、代用燃料の木炭も配給制となって減少し、薪自動車に転換する状態であったのである。
同二十年八月、第二次世界大戦の終戦を迎え、国民は悲惨な生活とのたたかいが始まり、そのころは戦中から薪をつんだまま走行する木炭車が唯一の交通機関であった。ガラス窓は破れ、ムシロや板張りで補強したバスは、大田原地方の山坂の多い道路では運行も容易でなく、坂路では登り切れずに乗客に下車してもらい、あとおしを頼む状態がしばらく続いたのである。
木炭自動車(「激動の50年」)
同二十五年の朝鮮動乱後、徐々に経済は好転し、東野交通は宇都宮自動車工業株式会社を買収して、自家工場が発足し、翌二十六年には、茨城県まで路線を延長したのである。
このころ、代用燃料車を石油燃料車に転換し、観光事業の開発を図ったのである。