同三十年度の営業報告書によれば、鉄道及び自動車部門の事業成績は次のとおりである。
鉄道業 三六、七一〇、一三二円
自動車業 二九六、七九一、八〇五円
輸送人員 八、七四六、四一三人
一日平均 二三、九六三人
(「昭和三〇年度東野鉄道第七三回営業報告書」)
これをみると、自動車部門の収入の割合は全体の八九パーセントで、その進出が目立つのである。
そのうち大田原営業所関係の業績は、次のとおりである。
乗車人数 一、五六五、七八五人
一日平均 四、二八九人
運行粁数 二四五、六キロメートル
(「昭和三六年 東野鉄道資料」)
次に、同四十三年及び同四十年におけるバスの旅客輸送状況は第10・11表のとおりである。発着回数の多いのは大田原―西那須野間で、西那須野で国鉄東北本線に連絡するためである。このことは現在も同様である。大田原―西那須野間の一日の運転本数は三〇本を数え、大田原経由佐久山・福原・小川・馬頭・黒羽行等を合せれば八〇本余にもなり、利用者の多いことを示している。
第10表 バスの旅客輸送状況 |
(昭和43年) |
路線名 | 運行路 | 回数 | 1日平均乗客数 |
宇都宮 | 大田原―宇都宮 | 往復7 | 1,073 |
小川 | 大田原―小川 | 〃 7 | 435 |
湯宮 | 大田原―湯宮 | 〃 3 | 365 |
喜連川 | 大田原―喜連川 | 〃 3 | 150 |
西那須野(石林経由) | 大田原―西那須野 | 〃 3 | 36 |
西那須野 | 大田原―西那須野 | 〃 12 | 823 |
片岡(佐久山経由) | 大田原―片岡 | 〃 8 | 492 |
関谷 | 佐久山―関谷 | 〃 5 | 271 |
乙連沢 | 大田原―乙連沢 | 〃 2 | 39 |
親園 | 大田原―親園 | 〃 4 | 168 |
宇都宮(佐久山経由) | 大田原―宇都宮 | 〃 2 | 152 |
白河 | 大田原―白河 | 〃 3 | 218 |
矢板 | 小川―矢板 | 〃 5 | 167 |
(「のびゆく大田原市」社会科研究会編」) |
第11表 路線バス乗降客数 |
路線名 | 乗降客人数 | 運転回数 | 1回あたりの乗車人員 |
大田原―宇都宮 | 1,310,000 | 6,935 | 189 |
大田原―宇都宮(西那須野経由) | 181,000 | 1,460 | 124 |
大田原―佐久山 | 260,000 | 4,745 | 55 |
大田原―小川 | 420,000 | 5,840 | 72 |
大田原―西那須野 | 1,208,000 | 10,950 | 110 |
大田原―片岡 | 50,000 | 1,095 | 46 |
大田原―乙連沢 | 24,000 | 730 | 33 |
大田原―野崎(宇田川経由) | 76,000 | 2,190 | 35 |
大田原―野崎(西那須野経由) | 44,000 | 1,460 | 30 |
大田原―黒磯 | 117,000 | 2,190 | 53 |
大田原―白河 | 61,000 | 730 | 84 |
大田原―湯宮 | 125,000 | 1,460 | 86 |
大田原―喜連川 | 33,000 | 1,095 | 30 |
大田原―西那須野(石林経由) | 6,000 | 730 | 8 |
(「市勢要覧 大田原」1965」) |
大田原―宇都宮間の多いのは県都宇都宮との結びつきの深いことを示している。現在は廃止されている白河―大田原間の路線は、沿線に住む地区民の近距離利用者が多いものと思われる。
佐久山や小川への路線を利用する人の多いのは、県北の政治・経済・文化の中心である大田原との結びつきが強いためである。これらの傾向は現在でも全く同じなのである。
なお、同五十五年十月現在の大田原を中心とする運行路線は次のとおりである(第2図)。
第2図 大田原営業所管内路線図
(昭和56年12月現在)
西那須野―大田原―黒羽―雲岩寺線
大田原―西那須野線
西那須野―大田原―佐久山―福原線
大田原―西那須野―野崎―関谷線
大田原-東那須野―湯宮線
大田原―矢板―氏家―宇都宮線
大田原―黒羽高校線
西那須野―大田原―小川線
西那須野―大田原―馬頭線
黒羽―大田原―矢板線
西那須野―大女高線
黒磯―大田原線
大田原―野崎―矢板線
大田原―黒羽刑務所線
(昭和五六年一二月改正「時刻表」)
これらの一四路線ごとの乗車人数は未詳であるが、同五十四年度における大田原営業所管内の輸送人員数は次のとおりである。
乗車人数 一、九七五、九四九人
一日平均 五、四一三人
(「東野交通大田原営業所資料」)
この数字は、前述せる同三十六年の乗車人数に比べると、二六パーセントの伸び率を示している。
なお、営業所所在地は、開業当初は新富町一丁目(現 原眼科)にあったが、同四十年後半に美原町に移り現在に至っているのである。