塩原自動車株式会社

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昭和十二年日中戦争が勃発し、国の内外はまことに騒然たるものがあり、同十三年五月には「国家総動員法」が施行された。以来これに基づく戦時物資の統制が行われ、石油類は切符配給制となり、消費規制は一段と強化されたのである。国の内外の情勢はいよいよ風雲急を告げるに至り、観光バスは休業となり、ハイヤー事業は全面休止とまでは至らなかったが、二台程度の車数をもつ零細業者が、大田原警察署管内に二三業者もあって、細々と営業を続けていたのである。本市域内の業者は次のとおりである。
 
  佐久山町   大島佐一
   〃     石崎盛晴
  大田原町   大島辰雄
   〃     山村功
   〃     藤田政六
   〃     西崎光一
   〃     高久幸一郎
   大田原町  長谷川光篤
(「塩原自動車資料」)

 その後、ますます消費規制は強化され、小規模経営では緊急輸送需要等に対応することはできないということで、国の方針により、当時監督官庁であった警察の強力な勧奨により、大田原町(現在地)・西那須野町・塩原町のそれぞれに営業組合を創り、各地区一か所に集合して営業を行っていたが、あくまでも各事業者ごとの各個の経営であったのである。
 同十五年に至って、当局から戦時下地域別企業統合の指令が出され、この業種も全国的に警察署管内一企業の原則により、強く勧奨されたのである。大田原警察署管内でもその指令によって、管内一括企業合同の計画に着手したが、それは容易に進展しなかったのである。同年十一月になり関東自動車株式会社(社長小平重吉)の西那須野営業所と、当時大田原と塩原町の二か所において営業をしていた長谷川自動車商会(長谷川光篤)が中心となり、小業者の営業権及び車両を買収し、会社を設立したのである。これが塩原自動車株式会社である。
 同十五年十二月八日塩原町和泉屋旅館に於て設立総会が開催されたのであるが、設立に関係した人達を記してみると、のちの栃木県知事小平重吉が発起人代表となり、保坂正七(県商工会議所連合会長)・西那須野の川上安一郎(のちの町長)・現社長の大田原の長谷川光篤ら一五名であったのである。
 設立総会の結果、次のように社名と役員が決定したのである。
 
  一、名称 塩原自動車株式会社
  二、資本金十三万円
  三、役員
     取締役社長    小平重吉
     常務取締役    川上安一郎
     取締役営業部長  長谷川光篤
     取締役車両部長  土屋金一
     取締役      保坂正七
      〃       鈴木政衛
     監査役      瀬尾義一
      〃       滝沢金一
      〃       佐藤儀助
      〃       富永豊
(「塩原自動車資料」)

 創立当時は戦時下でもあり、営業は休業状態にちかく、低調であったので車両も少なく、次の三営業所により経営していたのである。
  西那須野営業所(西那須野町永田町)
  塩原営業所(塩原町下塩原)
  大田原営業所(大田原市新富町二丁目)
 第二次大戦後交通事業の隆盛に伴い、営業も伸長し、さらに、生活水準の向上に伴い現在では利用者が増加しているのである。
 したがって、経営規模・経営範囲を拡大し、現状は次のとおりである。
 
  本社      那須郡西那須野町永田町三ノ一
  西那須野営業所 那須郡西那須野町永田町一ノ一
  塩原営業所   塩谷郡塩原町下塩原六〇八ノ一
  関谷営業所   塩谷郡塩原町関谷五六
  大田原営業所  大田原市新富町二ノ一ノ二四
  佐久山営業所  大田原市佐久山二、一九八ノ二
  東那須野営業所 黒磯市大原間五四五
  自家整備工場  那須郡西那須野町扇町一ノ七
  資本金 二、五〇〇万円
  代表者 代表取締役社長 長谷川光篤
  現有車両 一一〇台(全車両無線電話装着)