大田原宿からの諸道と里程

855 ~ 859
徳川幕府の長い鎖国政策が終わり、欧米の文明が急速に入ってくるとともに、馬車その他の車両交通が急速に普及してきた。明治二年(一八六九)に人力車が発明され、ついで馬車が輸入された。また、電信が開通し、汽船会社も設立されている。しかし、明治政府は何よりもまず鉄道政策に力を置き、明治五年(一八七二)十月十四日には、新橋―横浜間に我が国初めての鉄道が開設されたのである。最初、わずかに二九キロメートルにすぎなかった鉄道延長は、明治末にはついに七、〇〇〇キロメートルを上回るに至った。明治三十九年政府は「鉄道国有法」を制定し、以来統一のある強力な鉄道輸送政策が推進されることになったのである。このような鉄道優先政策により、陸上交通における道路の地位は二の次であった。
 それで道路に関しては、きわめて遅々とした歩みではあったが、道路行政の全般にわたって、近代国家としての諸制度が着々と準備されてきたのである。
 慶応四年(一八六八)五月に各藩の関所が、翌明治二年一月には諸道の関所が廃止され、庶民の通行は自由になった。
 大田原市の道路に関する記録は、明治二年四月新政府に民部官が置かれ、道路駅逓が管掌されると、駅逓司より街道筋の里数調書を提出したことが初見である。次にこれを記す。
 
五月十七日(明治二年)一、今般東京表ヨリ被仰越候ニ付取調候事
 藩々領地之内本街道枝道人馬継所村名附並継所ヨリ継所迄ノ里数附早々取調可差出候事
  但右取調中日限見込ヲ以テ清書差出ヘキ事
   巳五月                                   駅逓司
 右ハ隣藩黒羽烏山両藩ト申談シ当月廿五日差出ス
大田原宿ヨリ
 上リ本街道 一佐久山宿ヘ 道法一里二十五町四十一間
 下リ同   一鍋掛宿ヘ  〃 三里一町五十七間
 枝街道 但日光道    一沢村ヘ 道法二里八町
 枝街道 [塩原温泉会津道]  一関谷村ヘ〃 三里十五町五十一間
  同村ヨリ塩原ヘ三里関谷村ヨリ下石上村ヘ四里同村ヨリ佐久山一里半
  〃那須湯本道 一波立村ヘ 道法三里九町、室野井ヘ二里
  〃棚倉道 一寒井村ヘ 〃 三里
       一黒羽町ヘ 道法二里二十町三十二間
  〃烏山水戸道 一佐良土村ヘ 〃 三里十五町五十一間
 祖母井村ヨリ
  枝街道 喜連川ヨリ水戸道 一鴻野山村ヘ 道法四里同村ヨリ喜連川ヘ二里
  同  一七井村ヘ    〃 二里同村ヨリ飯村ヘ二里
  同  下飯関宿ヘ之道  一赤羽村ヘ 〃 二十町
  同  茂木道    一市塙村ヘ 〃 一里
 右之通取調差出候事

(「大田原藩諸事手鑑」)

 これらは、陸上交通の駅伝馬制の基本であった領内各道里数の再確認である。明治二年四月二十二日新政府は各駅人馬の定備(奥州道中の常備人夫二五人、駄馬二五匹)及び助役等が廃され、これよりは人馬の定員は行旅の予告する員数を、各村の石高に応じて人馬を徴し、その逓送を行ったので、これらの使役した人夫賃金の支給等は、実里数によって支払いが行われることになった。新政府の命令によって、大田原藩においては、隣接の黒羽・烏山藩と打ち合わせを行い、調べの結果を政府に提出したのである。これらの記録によって、当時の大田原宿を中心とする諸宿村への諸道や里数が理解される。
 なお時代は下るが、明治十七年五月、大田原宿「地誌編輯材料取調書」によると、大田原宿からの諸官庁や宿村への里程が記されているので示す。
  里程
   栃木県庁エ午ノ方拾七里三拾五町
   宇都宮栃木県庁エ午ノ方拾一里
   大田原旧支庁エ卯ノ方一町
   足利旧支庁エ坤方廿五里三拾五町
   宇都宮旧支庁エ午ノ方拾一里
   那須郡役所エ乾方五丁
   栃木軽罪裁判所エ午ノ方拾七里三拾五町
   栃木軽罪裁判所宇都宮支庁エ午ノ方拾一里
   大田原警察署エ卯ノ方一町
   宇都宮電信局エ午ノ方拾一里
    但大田原宿中央字上町ヲ起程トス
    以上本宿所轄ノ官庁トス
   佐久山宿エ午ノ方壱里廿八丁
   鍋掛宿エ子ノ方三里拾丁
   塩谷郡矢板村エ酉ノ方三里六町
   黒羽向町エ卯ノ方弐里廿三丁
    但起程ノ地前同断
    以上近傍輻湊ノ地トス
   親園村エ午ノ方壱里
   那須野村エ酉ノ方壱里七町
   石林村エ子ノ方拾八町
   中田原村エ丑ノ方拾八町
   町島村エ子ノ方廿町
   刈切村エ巽方拾八町
   荻野目村エ巳ノ方廿三町
   宇田川村エ巳ノ方廿八町
    但起程ノ地前同断
    以上八ケ村本宿四隣接壌ノ地トス

大田原宿上町よりの各方面への里程