明治期の国道・県道・里道

859 ~ 867
明治四年(一八七一)二月、翌五年十月には「道路修掃規定」が制定され、明治六年八月には、大蔵省番外達「河港道路修築規則」が出され、道路の種類及び等級を定め、費用負担や工事の執行方法等が確立され、人民が自費で道路を改修したものには、地方行政庁は一定の補助を与えることと定められた。これによって我が国初の新しい道路行政が確立されたともいわれている。
 この規定により、道路を一等から三等までの等級に分けたのである。本県においては、明治七年二月、道路の等級を次のように示している。本市に関するもののみを示す。
 
    一等道
  一 陸羽道(旧奥州道中)
    二等道
一 日光道ヨリ陸羽支道 日光道今市駅ヨリ舟生玉生駅等ヲ経テ陸羽道大田原ヘ出ル(旧日光北街道)

  一 陸羽道宇都宮ヨリ板戸鴻ノ山福原黒羽道
  一 陸羽道小滝村ヨリ寒井伊王野通棚倉道
  一 陸羽道大田原ヨリ黒羽道
(「栃木県史材料」栃木県立図書館所蔵)

 この時二等道は県下で四〇道が示された。さらに、道路等級・名称・掃除丁場標柱等を各道に設置するよう同時に布達されたのである。

掃除丁場標柱

 明治八年六月の地方官会議には「道路付橋梁」という議案を付議、路政改正について審議され、この結論によって翌明治九年太政官達第六〇号で、前の大蔵省達を廃止して、新たに国道・県道・里道の制が定められたのである。この規格は一等国道七間(一二・七メートル)、二等国道六間(一〇・九メートル)、三等国道五間(九・一メートル)、県道四間(七・三メートル)ないし五間(九・一メートル)と定めた。国道は三等級に分けられたのである。一等国道は東京から各開港に達する道路、二等国道は東京から伊勢神宮及び各鎮台に達する道路、三等国道は東京から各県庁に達する道路及び各鎮守府・各鎮台を拘連するものと定められた。
 
  道路
   陸羽街道
旧壱等ニ属ス本宿南ノ方字八木沢親園村境ヨリ東ノ方字大久保中田原村界ニ至ル長一里拾丁幅平均四間馬踏壱丈南ノ方ハ松杉ノ並木アリ字新田町ヨリ西ニ折レ日光道アリ旧二等路ニ属ス

  右之通取調進達候也
                               那須郡大田原宿外四ケ村
   明治十七年五月十七日
                                      戸長 江連政盛
    栃木県那須郡長 荒賀直哉殿
(雑・第八)

 明治十八年一月には、太政官布達第一号で、国道の等級を廃止し、同時に国道の幅員は七間(一二・七メートル)以上でなければならないとした。同年二月また、内務省告示第六号で国道表を定め、初めて国道の路線を確定した。指定された国道は四四路線で、経過地は府県庁所在地・鎮台所在地などであったが、明治二十年勅令第二八号によって一六路線が追加されて合計六〇路線となった。この時、三島通庸によって、明治十七年路線変更された宇都宮、今泉、岡本経由、上阿久津、氏家、片岡、矢板、下石上(大田原市)、三島、東小屋、黒磯、高久、小島、白河を結んだ新陸羽街道が、国道六号線に指定されたのである。
 
  一道路
陸羽国道ハ塩谷郡矢板村大字土屋ヨリ来リ本村大字沢ノ西端ヲ経テ箒川ヲ越ヘ大字薄葉ニ入リ北折シテ大字下石上ノ中央ヲ縦断シ大字上石上村トノ境界ニ於テ直角ノ屈折ヲナシ西那須野村ニ入ル里程二十町余

(「明治二七年野崎地誌材料調」)

 と本市の通過地点が記されている。また、「第六号線ノ延長三十二里四町十間六分」を国道と定められた。なお、大正九年四月一日内務省告示第二八号を以って国道第六号は、第四号路線と改称されるのである。
 県道も三等に分けられ、本県においては、明治十八年十一月五日告示第二五一号を以って通達された。
  旧二等路ノ名称ヲ廃シ左ニ記載之道路ヲ以テ県道線路ト仮定候条此旨告示候事
   仮定県道
  一日光北街道 那須郡大田原宿ヨリ上都賀郡今市宿ヲ経テ同郡日光町ニ至ル
  一大田原街道 河内郡宇都宮町ヨリ同郡白沢宿ヲ経テ那須郡大田原宿ニ至ル
  一黒羽街道 那須郡大田原宿ヨリ同郡黒羽町ニ至ル
(「栃木県令達類纂」)

 本市に関する部分のみ記したが、仮定県道は三五路線「延長二百四里十八町三十五間八分」と定められたのである。
 仮定県道は、明治十八年の告示の時に、県道を三等に分けそのうち一等県道は各県を接続するものと、各鎮台から各分営に達する道路、二等県道は各府県本庁からその支庁に達する道路、三等県道は、著名な区から都府に達し、あるいはその区に往還するのに便利な海港等に達する道路と規定され、この選択をし県は内務省に伺い出ることとされていたが、県道は調査未了のまま、なかなか指定されるに至らなかったので、府県はこれらの道路を県道と仮定して、道路維持費等の支弁をしたので、これを仮定県道と称していたものである。
 県道についても同様、三等に分けられ、地方長官がこれを決定する制度であった。
 
     道路
  一等里道 塩原道 長サ二十七丁三十九間幅四間町ノ西ヘ出テ北ヘ屈曲シ夫々直線平坦路也
里道 石林道 長拾五丁十間幅四間町ノ西北隅ヘ出テ平坦一直線路也
里道 今泉道 長拾五丁拾弐間幅二間三尺町ノ北ヘ出テ弓形ヲナシ坂路ヲ経テ一ツノ橋梁アリ
里道 宇田川道 長二十八丁十間幅一間三尺町ノ東ヘ出テ半円形ニ南ヘ曲リ山路ヲ経テ地勢平坦也
里道 下石上道 長二十八丁五間幅二間町ノ南ヘ出テ斜メニ西ヘ曲リ原野平坦路也
里道 荻野目道 二十三町五十間幅一間三尺町ノ南ヘ出テ直線ニ原野ヲ経テ平坦路也
里道 大和久道 長二十五丁四十二間幅二間町ノ東ヘ出テ中央僅カニ屈曲アレドモ概直線路トス

(「明治二一年大田原地誌編纂材料取調書」)

 また、明治二十七年「野崎地誌材料調」は次のように記している。
 
仮定県道ハ西那須野村ヨリ来リ大字薄葉ニ入リ陸羽国道ト一致スル一直線ノ道路ニシテ塩谷郡矢板村大字土屋ニ入ル里程十二丁余
咲山街道ハ一等里道ニシテ咲山町大字大沢ヨリ来リ大字豊田北隈ヲ経テ大字沢ヲ中断シ塩谷郡矢板村ニ入ル里程大凡三十町余日光街道ト称スル里道ハ西那須野村ヨリ来リ大字薄葉ヲ貫キ箒川ヲ渡リ大字沢ノ中心ニ於テ咲山町ヨリ来ル一等里道ト合シテ西折シ塩谷郡矢板村ニ入ル
塩原街道ト称スル里道ハ親園村ヨリ本村ニ入リ大字平沢、薄葉ヲ経テ日光街道ト交叉シ後分テ二条トナリ一条ハ仮定県道ト交叉シテ薄葉ノ北辺ヲ通リ一条ハ薄葉中央ヲ貫キ陸羽国道ト仮定県道トノ触接点ニ於テ国道ト合ス而シテ下石上ノ中央ニ至リ二条合シテ一トナリ大字上石上ト下石上トノ境界ニ於テ国道ト分テ大字上石上ヲ中継シ塩谷郡箒根村大字下大貫ニ入ル
牛街道ト称スル里道ハ親園村ヨリ来リ本村大字平沢ヲ経テ豊田ニ入リ一等里道ト交叉シ分テ二条トナリ全ク方向ヲ異ニス一ハ南進シテ大字成田ヲ貫キ塩谷郡片岡村大字安沢ニ入リ一ハ東方ニ弯曲シテ上江川村大字上河戸ニ入ル

 「親園郷土誌」(明治四十四年)には、
 
仮定県道(旧奥州街道)本道ハ南佐久山町ヨリ来リ本村大字滝沢ノ東部ヲ過ギ更ラニ親園ノ中央ヲ貫通シテ大田原ニ至ル其本村内ニ於ケル延長里程ハ一千四百三十七間途中大字滝沢地内ニ地蔵坂及台ノ小坂アルノミニシテ幅ハ四間乃至五間ノ平坦ナル道路ナリコハ当村ヨリ大田原佐久山両町間ニ交通スヘキ唯一ノ道路ニシテ(中略)
一等里道野崎街道ハ佐久山町ヨリ野崎停車場ニ通スル道路ニシテ佐久山町字川向ヨリ仮定県道ヲ西ニ分レ本村大字滝沢字山王下ヨリ西北ニ進ミ野崎村大字平沢ニ入ル而シテ其本村内ノ路程八百九十五間途中山王坂遠上坂ノ二小坂アルノミニシテ其他ハ概ネ平坦ナリ
二等里道旧日光街道ニシテ大田原町字新田ヨリ来リ本村大字実取ノ西部ヲ過ギ野崎村大字薄葉ニ通ズ而シテ本村内ニ於ケル延長里程ハ約三町ナリ
二等里道関谷街道ニシテ佐久山町ヨリ本村大字滝沢ノ中央及大字親園ノ西南部ヲ経テ西那須野村第一区ニ通ズル道路ナリ而シテ本村内ヲ通過スルコト約一里
二等里道黒羽街道ニシテ佐久山町ヨリ来リ仮定県道ヲ経テ大字滝沢下坪ヨリ分岐シ大字滝岡花園宇田川ヲ経テ蛇尾川ヲ渡リ金田村大字鹿畑ニ通ス其本村内ニアル延長里程ハ凡ソ一里余ナリ
二等里道大田原中街道ニシテ佐久山町大字大神ヨリ箒川ヲ渡リ本村ニ入リ大字滝岡花園荻野目ヲ過ギ大田原ニ達スルモノ其村内ニ於ケル道程三十余町ナリ
二等里道大田原東街道ニシテ佐久山町大字福原ヨリ本村大字花園ニ入リ大字荻野目ヲ経テ大田原ニ達スルモノ本村内ノ延長約一里余リナリ
二等里道佐良土街道ニシテ野崎停車場ヨリ本村大字滝沢滝岡花園ヲ経テ湯津上村大字片府田ニ入ル此村内里程ハ一里八丁
二等里道馬頭西街道ニシテ大田原町ヨリ本村大字宇田川ノ中央ヲ過ギ湯津上村大字片府田ニ通ズ此本村内ニ於ケル里程ハ十八町余ナリ
村道 村道ニ至リテハ村内各大字ニ通スルモノ及隣町村ニ交通スル小道等其数頗ル多ク恰モ蜘蛛ノ網ヲ張リタルニ同ジク一々枚挙スルニ暇ナキヲ以テココニ之ヲ省略セリ

(「親園郷土誌」 第二編)

 県下の一等里道は、明治四十四年七月には、「二三二路線、延長五百五十九里二十三町十八間三分」に達した。
 明治十九年には、内務省訓令第一三号で「道路築造保存方法」を定め、後の「道路構造令」や「道路維持修繕令」の原型となった。
 明治三十六年には自動車の輸入出現とその利用度の増大、交通諸車の発達と交通増加に伴って、道路改良の急務が唱えられるに至るのである。このように、路線の確定、築造方法の制定等、制度面での整備が逐次行われ、道路事業も拡大されつつあった。
 明治時代の後半は、日清・日露の両戦争のためもあって、道路に関する施策はほとんど見当らないが、ただ両戦争の後は軍事道路との結びつきが、年々事業費を累積していった。