その後、明治十八年には、太政官布達第一号で、国道の等級を廃止し、内務省告示第六号で、初めて国道一号から四四号までの国道表を定め、国道の路線を確定した。この時、国道四号線は、国道六号と呼ばれていたのである。第四国道と呼ばれるようになったのは、大正九年の改正からである。
これより先、明治十六年栃木県に赴任した、栃木県令三島通庸は、土木県令・鬼県令とあだ名されたほどの県令で、道路の開発には異常なほどの熱意を見せ、多くの新路線を開削するとともに、一国の主要幹線である一等道路陸羽道すなわち旧奥州道中の、宇都宮、白沢、氏家、喜連川、佐久山、大田原、鍋掛、越堀、芦野、白坂、白河道間を、宇都宮から岡本、阿久津、氏家、蒲須坂、片岡、木幡、矢板、土屋を経て箒川を渡り、北那須に入り、下石上、上石上、三島、大原間、黒磯、高久、小島、夕狩を経て福島県白河に達する路線へと変えたのである。現在の国道四号線、陸羽街道である。本市を通過する区間は野崎橋、西那須野町境、下石上、上石上の延長四、一一五メートルである。
三島通庸(益子孝治氏提供)
ところで、これらの国道の整備、すなわち路線変更は、道路のもつ機能の変化とともに、市民生活に大きな影響を与えてきた。市内を走る旧奥州道中の国道四号路線変更は、明治十七年の三島県令による陸羽街道の国道指定時に、その工事が進められたのである。
これらの様子を次に詳記する。まず栃木県会における闘争に眼を向けてみよう。
第五回通常県会は、明治十六年三月九日から四月七日まで開かれた。この県会で「道路新開費(会津街道尾頭峠ヨリ塩原ヲ経テ奥州街道ニ通スル三か年間継続工事)(「栃木県会沿革誌」)が上提された。これは、山形県令より福島県令に転じ、さらに本県に赴任した三島県令の施策「県治ノ目的主トシテ道路ヲ改修シ交通ノ更ヲ開カントスルニ在リ、東京以北奥羽街道会津街道等一斉竣工ニ至ラシメンヲ期シ」(「栃木県会沿革誌」)に呼応するものであった。すなわち、関東以北、奥州街道、会津街道を結び、中央との連絡を密接迅速ならしめようとするところにあった。
さて、栃木県会に上提された三か年継続の大土木工事は、同年三月二十八日栃木県会議長安生順四郎から県令藤川為親に「番外第一号議案ノ義ニ付上申」され、「抑本案ノ土工ノ如キヤ其通路タル福島県界塩谷郡横川村ヨリ上中下塩原村ヲ経テ陸羽街道親園村ニ達スルノ間ニシテ之ヲ開削スレバ幾分ノ便益アラン。然レドモ之カ為メニ費ス処ノ金ハ五万五千五百六十四円二十銭一厘ノ巨額ニ上レリ。而シテ沿道町村ノ協議費及有志者ノ出金等ニ至テハ未必ノ事ニシテ予メ断定ス可ラザルモノナリ。今日ノ現状タル焦眉ノ急ヲ要スルノ事業ヲスラ勉メテ節減ヲ加ヘ民力ノ負担ヲ弛ヘザルノ時也。(中略)人民カ生計ノ困難ナルヲ憫察シ之ヲ本年ニ決行セズ暫ク民力ヲ養成セラレンコトヲ謹テ上申候也」(関口元老院議官地方巡察復命書「栃木県」)。
塩谷郡横川村より塩原村を経て親園村に達する新道開削は巨額がかかるとして、議会は人民の苦しみ、財政上の一大変動、地方税の過重などによってかんがみその決行を中止し、しばらく民力を養成せられんことを上申した。そこで県令藤川為親は、直ちに再議に付したが、県会は断呼反対を主張したのである。県令は権限をもって原案執行の挙に出たが、同年四月七日第五回通常県会は閉会を告げた。藤川県令は、このこともあって栃木県を去ることになり、三島県令の来任になったといわれている。
同年十月三十日付で県令藤川為親は島根県令に、福島県令三島通庸が栃木県令を兼任し、十二月十二日栃木県に赴任した。
三島通庸、天保六年(一八三五)~明治二十一年(一八八八)、弥兵衛と言って薩摩藩士、幕末維新の際国事に奔走、明治七年山形酒田県令、同十五年福島県令となり、同十六年栃木県令を兼任、栃木県令として来任したのは、彼四八歳の時である。同十七年内務省土木局長、同十八年には警視総監となり、在職中保安条例を執行して、自由民権論者五〇〇名の即夜東京追放をやってのけた。周密な頭脳と豪腹な実行力、栃木県令在任は一年に満たなかったが、県庁の宇都宮移転と大道路の貫通の断行など、この鬼県令と民権論者の激突は必至であったのである。
第六回通常県会は明治十七年三月十八日開かれた。三島県令最初の県会である。県令三島通庸提案の明治十七年度土木費は、総額一〇五、〇七三円九七銭二厘、うち道路橋梁費九〇、四五九円八銭四厘で、道路費が例年になく増大していた。こうした原因は三島県令の道路新設・改修の計画によるものであった。その計画は氏家宿を起点に南は古河にいたる一五里三〇町余(約六二・二キロメートル)の一等道路の拡幅修繕と、北は氏家から福島県界に達する一四里二〇町余(約五七・二キロメートル)の新開工事を基本とするもので、その費用一七二、〇〇七円を要した。これを国庫補助六〇、〇〇〇円と沿道町村協議費三七、〇〇七円を予定し、残金の七五、〇〇〇円を地方税支弁とした。したがってその他の二等道路修繕費を含めて地方支出九〇、四五九円余となったのである。県会にあっては、道路改修費の如きは、町村協議会より支弁すべきではないとして、これを削除して地方税に転化し更に国庫補助金より、一〇、〇〇〇円を削り他の費目から増減を行って、前記の修正を行ったからである。この県会において、土木費は、削減を見るどころか増額を見たのである。質問会では種々の疑問が県会議員から出されたが、「修正意見書」は「本年度ハ先ヅ其最モ緊急ノ道路タル陸羽街道氏家宿迄ノ修築ヲ収メ及ビ氏家宿ヨリ福島県下白河宿ニ通ズル原街道ヲ第一着トシテ一層精良堅固ニ開修セントス」と記されて、最初の計画路線は原街道筋であったことがうかがい知れる。
この街道は、江戸時代に原方道・原街道と呼ばれ、福島県白河市から栃木県氏家町上阿久津に至る街道で、会津藩主保科正之が、正保二年(一六四五)藩米を江戸に運送することを中心として造らせたものである。白河の次が黒川で、夕狩、迯室、小島、高久、東小屋、槻沢、平沢(大田原市)、鷲宿、氏家、と進み、終点の阿久津河岸に達する。現在の夕狩までは国道四号線に変っている。
議長は、修正意見については、可否を決するとき十分討論するとして、総体の意見を求めた。この間、田中正造らの修正意見をふくめて修正動議が提出されたが、結局常置委員の意見に、若干の修正を加えた動議が多数で可決された。すなわち第六回通常県会では、単に原街道を改修することのみに決められたのである。土木費の増額と大道開発計画は県会の非力と言うよりも、三島県令の圧力を知るべきところであろう。第五回通常県会における道路工事反対議決は、毛を吹いて過大な傷を求めた形になったわけである。かくて、通常県会は四月十六日閉会になるが、明治十七年度の歳入歳出の審議がなされたのみで、工事の具体的なことについてはなんら審議がなされなかったのである。
日時を欠くが、田中正造翁の「自伝」によると(「田中正造全集一」三島県令に対する反抗運動)、「昨今若松界三王峠より塩原間の新道工事中にあり、何卒御見分ありて三島が土木の御批評を願いたし」と三島県令は常置委員の節操が容易に動かないと察して伝えた。そこで常置委員らは十余日を費いやし、山王峠を越えて、会津若松までの視察を行い、塩原に至ると、
何ぞ図らん三島の機敏なる此留守中十数日の間に於いて神速驚くべきの運動あり先す県庁の工事ははかどり監獄、師範学校の敷地を献納せしめ、人民を遂ひ、家屋を毀ち、街衢(く)の切り広げを始めとし、陸羽街道数十里の国道は僅々三日間に三十里余の道敷を形ち造り尚砂利運搬の最中となり、又県道改修に併せて各郡々衙と警察署との改築に着手したり
(「田中正造全集一」三島県令に対する反抗運動(十))
うるさい連中の留守に、既成事実が作りあげられたのである。常置委員の一行は、マンマと一杯ひっかかったのである。常置委員の留守中に、全県下の計画された土木工事が着手されたのである。三島県令の果断な鮮やかな実行力である。
明治十七年九月五日、第八回臨時県会が召集された。明治十六年度より三か年継続工事にかかわる会津街道開削は、県会議決の工事設計変更をしたため、工事里程が延長され工事費の不足を生ずるに至った。そこで県令はその不足額を追加支出とする議案を提出したのである。この提案を受けた議員中、反対の急先鋒として熱弁をふるったのは、いうまでもなく田中正造議員である。その中で、国道についての議場でのやりとりは、
○一番(田中君)曰、原街道ノ方ハ道程ノ延長セシヲ以テ何程カ地方税ノ不足スルナラン
○番外三番(馬場君)曰、詳細ニハワカラザルモ幾分カ不足スル割合ナリ
○一番(田中君)曰、阿久津ヨリ宇都宮迄ハ原街道ニアラザルカ、矢板ヘ回リシヲ以テ原按ノ積リトハ異ナルヲ見ル、如何
○番外三番(馬場君)曰、廻リヲ以テ二十町バカリ遠クナレリ、勿論是ハ記臆ノ儘ナリ
○一番(田中君)曰、何ノ為メニ迂回ノ道ヲ取リシ乎、迂回シテ道程ヲ延バスハ得策ニアラズ、如何
○番外三番(馬場君)曰、坂路ノ難易及ビ部落ノ位置ニヨル、又公衆ノ為メナレバ百人ノ便ヨリハ寧ロ千人ノ便ヲ図ル方ヲ可トスルナリ
○一番(田中君)曰、元来原街道ハ平坦ニテ善良ナル道路ナリ、之レヲ迂回シテ矢板ノ方ヘ途ヲ召レバ寧ロ坂路アラン、平道ヲ去リテ坂路ニ就キ且ツ里程ヲ延長ス、此迂回ヲ為スハ果シテ何ノ為メナル乎、是レ固ヨリ俗説ノ如ク三島村ノ為メニハ万々之レアルベカラザレドモ二十町ニセヨ特ニ之レヲ迂回スルニハソレダケノ利益ヲ信ゼザレバナスベカラザル筈ナリ
○番外三番(馬場君)曰、之ヲ延長シタルハ部落ノ為メト公衆ノ便利トヲ計リテ為セシナリ
(「下野新聞」明治一七年九月二一日第一〇〇号)
県令はほとんど答弁を行わず、土木行政については、土木課五等属馬場兼をして答弁させたのである。田中正造は、私利私欲のため陸羽街道を三島村へ通過させたとか、塩原新道の起点を三村島にしたのかと、皮肉交じりに追求し、さらに三島県令の県政は圧制政治であると県政を批判したのである。
翌九月十日、横尾輝吉(上都賀郡選出)は、常置委員会の意見を報告した。その中で横尾議員は、「此工事ハ全ク県令ガ法律ニ背キ議権ヲ犯シタルモノナルコト」を指摘し、工事の違法を具状して、参事院の裁定を仰ぐことが常置委員会の意見であると述べた。
参事院とは、内閣の命によって、法律規則の制定・審査・中央と地方における官庁間の権限争いの審理・裁決・法律法則につき、省庁府県の質問に答えることなどを司った。
監谷道博(那須郡)・和田方正(塩谷郡)議員は、追加支出については反対であるが、参事院へ訴えて裁定を仰ぐ必要なしとの反対意見を表明した。しかし、多数で参事院の裁定を仰ぐとの意見が可決され、議長横堀三子・副議長小峯新太郎を上京委員として、九月十日上京、参事院に裁定書を提出した。栃木県会の上申に対して参事院は、この問題は、参事院の裁定を請うべきにあらずとして、十一月二十日却下した。
十二月二十日県会は再会されたが、県会は道路新開費補充案は、実地調査の必要ありとして、本案の審議延長を決定し、県令もこれを認めざるを得なかったのである。田中正造は三島県政糾弾運動の途中、加波山事件連座の疑いで投獄され、県会には出席できなかった。
のち田中正造は、「三島県令土木事件」(明治十七年八月)として次のように記している。
旧壱等路工事ノ事
一等道路工事ハ不当ノコト多キヲ以テ沿道人民ガ苦役ニ堪ヘザルヨリ乙女河岸事件ノ如キ変事ヲ引起スノ大体ヲ述ブ可シ。扨ハ今十七年度ノ地方税ノ経済ヲ論ズルニハ先ヅ十六年度ノ地方税ハ幾千ナリヤ、十六年度ノ土木費中道路橋梁費ハ幾千ナリヤ、又土木費ノ三ケ年平均額ハ幾千ナリヤヲ略述ス可シ。
十六年度地方税ノ惣額ハ略三十七万円ナリ。同年ノ土木費ハ略七万円ナリ、又三ケ年平均ノ土木費惣額ハ僅カニ五万八千円ナリ。今之レヲ以テ左ノ如ク十七年度ノ地方税ト土木費等ニ比例セバ誰レカ又其増額ニ驚カザランヤ。
十七年度ノ地方税ハ略四十七万円ナリ。十六年度ニ比シテ十万円ノ増加ナリ。此内土木費十二万円ナリ。而シテコノ十弐万円ヲ県下一般ニ用ユルニ非ラズ。一等路ノミノ工費ナリ。以上ノ如クニシテ昨年ヨリ増加スルコト十万円ナルヲ以テ本年ノ民力ニ対シ殆ンド余地ナキモノナリ。今沿道ノ人民ヲ駆役シ数万ノ人夫ヲ費ヤシタリ。以上ハ一等路ノ工事費ハ人足ヲ以テ之レニ充テタレバ、地方税ハ千今存在シアルコトヲシルニ足ルベシ。
尚進ンデ一等路ノ線路ヲ変換セシハ何等ノ為メナルヤ、亦何会ノ決議ヲ経テ此専断ヲ行ヘシヤヲ質サントス。夫壱等路中氏家宿ヨリ南北ニ区別シ、南ハ修繕ヲ以テシ北ハ開築ノ見積リニシテ之レ原案ノ趣意ナリキ。而シテ氏家以来ノ旧道(注、奥州道中)ヲ廃シ、之レニ隣スル元街道(注、原街道)ナルモノアリ。旧道ヨリ近キコト壱里十弐丁、旧道ヨリ平坦ナルコト行旅ノ便ヲ得ルニ足ルト。之レ原案ノ説明ナリ。然ルニ今ニシテ原街道ヲ捨テヽ矢板街道ニ変シ、三島村ヲ通過セシメタルハ何等ノ利益アリテ然ルヤ。何故ニ原案ノ説明ト県会ノ議決トヲ変換セシヤ。将タ何会ニ於テ議決セシヤ。縮ムベキ里程ヲ無益ニ伸バシ、費用ヲ増シタルハ或ヘハ公益ヲ図ルノ趣意ニ出デタルニ非ラズ。右三島村ハ県令ノ開墾地ナリ。県令ノ宅地アリ。西郷従道君ノ開墾地アリ。旁ノ為メヲ以テ迂回シテナリトモ一等路ヲ茲ニ布設セザルヲ得ザルカ。之レ公益ヲ量ルノ理ニ非ラズ。又矢板村ニ迂回セシハ何ノ為メナルヤ。三島村ヘノミ迂回セバ目立チ、甚敷絵図上ニテモ不穏当ナルコト余リニ見易キヲ以テ矢板村ヘモ迂回シテ遠大ノ迂回トシ、三島村ニ壱等路ヲ布設スルモ成丈ケ世上ノ謗リヲ避ケントスルノ意ナリヤ。世上ノ謗リヲ避ケントナラバ、寧ロ公平ノ公益ヲ図リ原案ノ通リ賛成シタル議員モ多ケレバ、即チ原案ノ通リ原街道ヲ以テ新道トナスハ県下公民ノ許ス処ロナリ。誹リヲ避ケルノ廉恥ヲシリナガラ何故ニ三島村ニ迂回セシメタルヤ。
又氏家以南ハ大体平坦ノ地ナリ。只独リ白沢駅ニ少シノ坂アルノミ。其他ハ旧道ニシテ砥ノ如シ。殊ニ宇都宮以南ハ一直線道ニシテ盲人モ杖ヲ見セザル平坦ノ直道ナルニ、何故ニ旧道ニ隣シテ新道ヲ改築セシヤ。新道ノ旧道ニ優ル便利ノ幾分ヲ存スルアリト雖モ、是レ等ハ全ク不急ノ工事ナリ、改メザルモ可ナリ。暫ク旧ニ依リ新道改築費ノ半バヲ見事ナル道路ニ至ランノミ。然ルヲ察セズ、民間ノ困弊ヲ顧ミズ、数万ノ人民ヲ徒ラノ工事ニ苦役シ、乙女宿事件ノ如キヲ引キ起コセリ。之レ県治上ノ得失比例何等ノ為メナルヤヲシラズ。
以上ハ一等路工事ニ関スル概略ニシテ已ニ壱等路ハ無賃人夫ノ力ラヲ以テ稍成功ニ至ラントス。サスレバ地方税ヨリ支出セシ一等路費十弐万円ノ金額ト政府ヨリ下ゲ渡シタル略七万円トハ何レノ処ロニ蔵蓄スルヤ。
一等道路工事ハ不当ノコト多キヲ以テ沿道人民ガ苦役ニ堪ヘザルヨリ乙女河岸事件ノ如キ変事ヲ引起スノ大体ヲ述ブ可シ。扨ハ今十七年度ノ地方税ノ経済ヲ論ズルニハ先ヅ十六年度ノ地方税ハ幾千ナリヤ、十六年度ノ土木費中道路橋梁費ハ幾千ナリヤ、又土木費ノ三ケ年平均額ハ幾千ナリヤヲ略述ス可シ。
十六年度地方税ノ惣額ハ略三十七万円ナリ。同年ノ土木費ハ略七万円ナリ、又三ケ年平均ノ土木費惣額ハ僅カニ五万八千円ナリ。今之レヲ以テ左ノ如ク十七年度ノ地方税ト土木費等ニ比例セバ誰レカ又其増額ニ驚カザランヤ。
十七年度ノ地方税ハ略四十七万円ナリ。十六年度ニ比シテ十万円ノ増加ナリ。此内土木費十二万円ナリ。而シテコノ十弐万円ヲ県下一般ニ用ユルニ非ラズ。一等路ノミノ工費ナリ。以上ノ如クニシテ昨年ヨリ増加スルコト十万円ナルヲ以テ本年ノ民力ニ対シ殆ンド余地ナキモノナリ。今沿道ノ人民ヲ駆役シ数万ノ人夫ヲ費ヤシタリ。以上ハ一等路ノ工事費ハ人足ヲ以テ之レニ充テタレバ、地方税ハ千今存在シアルコトヲシルニ足ルベシ。
尚進ンデ一等路ノ線路ヲ変換セシハ何等ノ為メナルヤ、亦何会ノ決議ヲ経テ此専断ヲ行ヘシヤヲ質サントス。夫壱等路中氏家宿ヨリ南北ニ区別シ、南ハ修繕ヲ以テシ北ハ開築ノ見積リニシテ之レ原案ノ趣意ナリキ。而シテ氏家以来ノ旧道(注、奥州道中)ヲ廃シ、之レニ隣スル元街道(注、原街道)ナルモノアリ。旧道ヨリ近キコト壱里十弐丁、旧道ヨリ平坦ナルコト行旅ノ便ヲ得ルニ足ルト。之レ原案ノ説明ナリ。然ルニ今ニシテ原街道ヲ捨テヽ矢板街道ニ変シ、三島村ヲ通過セシメタルハ何等ノ利益アリテ然ルヤ。何故ニ原案ノ説明ト県会ノ議決トヲ変換セシヤ。将タ何会ニ於テ議決セシヤ。縮ムベキ里程ヲ無益ニ伸バシ、費用ヲ増シタルハ或ヘハ公益ヲ図ルノ趣意ニ出デタルニ非ラズ。右三島村ハ県令ノ開墾地ナリ。県令ノ宅地アリ。西郷従道君ノ開墾地アリ。旁ノ為メヲ以テ迂回シテナリトモ一等路ヲ茲ニ布設セザルヲ得ザルカ。之レ公益ヲ量ルノ理ニ非ラズ。又矢板村ニ迂回セシハ何ノ為メナルヤ。三島村ヘノミ迂回セバ目立チ、甚敷絵図上ニテモ不穏当ナルコト余リニ見易キヲ以テ矢板村ヘモ迂回シテ遠大ノ迂回トシ、三島村ニ壱等路ヲ布設スルモ成丈ケ世上ノ謗リヲ避ケントスルノ意ナリヤ。世上ノ謗リヲ避ケントナラバ、寧ロ公平ノ公益ヲ図リ原案ノ通リ賛成シタル議員モ多ケレバ、即チ原案ノ通リ原街道ヲ以テ新道トナスハ県下公民ノ許ス処ロナリ。誹リヲ避ケルノ廉恥ヲシリナガラ何故ニ三島村ニ迂回セシメタルヤ。
又氏家以南ハ大体平坦ノ地ナリ。只独リ白沢駅ニ少シノ坂アルノミ。其他ハ旧道ニシテ砥ノ如シ。殊ニ宇都宮以南ハ一直線道ニシテ盲人モ杖ヲ見セザル平坦ノ直道ナルニ、何故ニ旧道ニ隣シテ新道ヲ改築セシヤ。新道ノ旧道ニ優ル便利ノ幾分ヲ存スルアリト雖モ、是レ等ハ全ク不急ノ工事ナリ、改メザルモ可ナリ。暫ク旧ニ依リ新道改築費ノ半バヲ見事ナル道路ニ至ランノミ。然ルヲ察セズ、民間ノ困弊ヲ顧ミズ、数万ノ人民ヲ徒ラノ工事ニ苦役シ、乙女宿事件ノ如キヲ引キ起コセリ。之レ県治上ノ得失比例何等ノ為メナルヤヲシラズ。
以上ハ一等路工事ニ関スル概略ニシテ已ニ壱等路ハ無賃人夫ノ力ラヲ以テ稍成功ニ至ラントス。サスレバ地方税ヨリ支出セシ一等路費十弐万円ノ金額ト政府ヨリ下ゲ渡シタル略七万円トハ何レノ処ロニ蔵蓄スルヤ。
(「田中正造全集(一)」 自由民権三四)
また、「二等路以下ノ事」と題して、塩原道の件が記されている。
福島県令兼栃木県令三島通庸は、十一月二十一日付をもって内務省三等出仕に補せられ、本県を去ることになるが、後任には同月二十六日県令代理に大書記官樺山資雄が任命された。
奥羽街道(国道四号線)、工事着工 明治十七年四月二十三日、工事完成 明治十七年九月
塩原道路(塩原街道)は、明治十七年九月末に完成した。
三島通庸は、政府に名をかりて道路大改修を行ったのである。これによって、地方税増加による県民の困渋、官憲の横暴をきわめた工事監督、不当な寄付の徴集等、彼の得意とする強引とも思えるやり方で本工事を完成させたのである。
ちなみに、三島開墾地(三島通庸)が開墾事業に着手したのが、明治十三年十一月。西郷農場(西郷従徳(従道の子)、大山巌)が勧農局模範農場計画予定地一、〇〇〇町歩(一、〇〇〇ヘクタール)のうち、五〇〇町歩(五〇〇ヘクタール)を払い下げたのが、明治十四年である。