大田原宿内道路改修

889 ~ 890
城下町で宿場町であった大田原の道路は、城下特有の丁字路や屈曲を設けた道路網であった。これらの道路は、かつて城主によって改修されたりして、明治に引き継がれたのである。陸羽街道(奥州街道)は大田原宿場筋を通過していた関係上、道路中央には用水路の堀り割りが流れ、何かと生活上・交通上不便であったので、宿民が協議の結果、中央の用水路を道路両側に堀り割りして移し、道路の改修に宿民の費用を投じて実施したのである。次に願書を記す。
 
   道路改修ニ付用水堀変換願
                                    那須郡大田原宿
                                         人民惣代
右惣代奉願候儀ハ当宿内道路之儀ハ従来往還中央ニ用水堀有之常ニ行旅不便ニ御座候処目下大破及□□□付差向修繕相加ヘ□度奉□□依之沿道人民協議仕候処右用水堀ヲ左右ニ堀割中央ヲ以往還改築之儀協議相整候間御聞届被下度尤費用之儀ハ悉皆自費支弁仕候依別紙図面相添此段惣代ヲ以奉願候也

                                  那須郡大田原宿
                                   陸羽街道人民惣代
                                         大石安平印
   明治十八年四月四日                             吉川亀太郎
                                         人見定八
                                         山本定蔵
                                         浅井儀平
                                         薄井直吉
                                         鈴木喜平
                                         印南彦平
                                         川上利一
                                         阿部忠吉
                                      戸長 山崎章
  栃木県那須郡長 坂部教宣殿
(大田原・第九三)

 起点は下町(現 中央二丁目)薬師堂前から仲町・上町・寺町(現 山の手二丁目)上州屋旅館までの区間。明治十八年四月十日に着工して五月二日に工事は完了している。この費用二、四六七円一銭六厘。このように生活の基盤をなす道路整備は、民費をもって着実に進められてゆくのである。