市では、昭和四十年度「大田原市振興計画」を樹立し、一〇か年間に各種の事業を推進することを計画、道路関係では、前期五か年間に、主要幹線の一二八キロメートルの舗装を計画、全市道の三分の一を舗装することになった。
市道の未舗装部分については、ダンプカー五台とモーターグレーダーによる砂利道の整備を、道路愛護会の五つの支部の協力を得て行っているが、道路補修用の骨材の採取が思うにまかせず、クラッシャーによる砕石生産では一日約二〇立方メートルで、砂利の敷かれない道路が多いのが現状であった。
このために市は、直営および請負による市道舗装や補修工事、未舗装分の主要市道の砂利敷きなどに、能率的効果をあげるため、砕石プラントの建設と、簡易舗装用の土木重機械を購入し、道路の改良を積極的に推し進めたのである。
砕石を生産するプラントは、蛇尾川筋今泉橋上流の三ツ谷河原に、昭和四十二年七月に完成した。原石を第一次、第二破砕機にかけ、ベルトコンベヤーによって貯蔵ビンに積みあげるもの、ダンプへの積み込みは運転手が手動で行うもので、非常に能率的なものであった。砕石の生産量は、一時間当り二七立方メートル、一日稼動して一六二立方メートルの能力をもつのである。工事費は総計で一、四七四万円。
市営プラントによる単純生産費は低価格で生産でき、市政はもとより、市民の利便に大きな効果をあげたのである。当時、県内の自治体で最大の砕石プラントと折紙をつけられたのである。
その後、建設用骨材の不足は全国的な傾向を示したので、市ではかかる隘路を解消し、骨材の長期確保を図るために、大田原市と湯津上村の共同砕石プラント建設を協議し、昭和四十七年十一月に完成したのである。
プラントは総工事費一、七三五万円を投じ、湯津上村大字佐良土二升田地内、那珂川筋右岸河川敷二一、六七七平方メートルに、砕石選別機・砕石機・原石ビンなどの機械類と、事務室・操作室・倉庫などの建物が設置された。一日の生産量は切込砕石一八〇立方メートルである。
この砕石プラントの完成によって、市道の舗装や敷砂利が急ピッチに進行し、両市村の道路整備事業に大いに活躍したのである。
今泉河原の砕石プラント(益子孝治氏提供)