箒川 土橋、長九間二尺、横一間余、橋杭二本立 十組
蛇尾川 板橋、長九間 横七尺五間
(「天保十四年奥州道中宿村大概帳」)
このほかにも大小に係わらず道中筋の橋・土橋・板橋・石橋等が詳細に記されている。なお、橋がない時期は舟で渡河していたものである。
市内には箒川・蛇尾川などの中小河川がこのような状態なので、その他の河川・諸道の橋は推して知ることができよう。当時これらの河川は陸路の輸送をはばみ、産業の発達にも大きく影響をしていたものと考えられる。
明治初年、架橋が奨励されたが、官費の途が開かれなかったため、民費(地方税)や民間の私財で橋の架橋が行われたのである。橋も道路と同じく住民にかかる負担はかなり重かったわけである。しかし、民費で架設したものについては、橋銭を徴収することが許されていた。その橋銭で修繕費に充てていたのである。
証
橋渡銭
一金壱厘 人壱人
一金弐厘 タレ籠・山籠壱丁
一金六厘 人荷馬車壱両頭取共
一金八厘 同 弐頭走乗人車夫共
一金弐厘 人力車壱両乗人車夫共
(中略)
右ハ陸羽道蛇尾川深浅平均
(別紙)
舟銭
一金六厘 乗合壱人
一金六厘 荷物壱駄
一金壱銭弐厘 人力車壱両車夫共
(中略)
右ハ明治十年十一月御許可高札取調候処相違無之候也
明治十九年五月廿日
那須郡大田原宿
山本薫造印
戸長 山崎章殿
(大田原・第九三)
これらは、蛇尾川に架かる蛇尾橋の橋渡銭と舟渡銭の単価である。橋銭は人が一厘、人力車が二厘、荷馬車が六厘程度であったことが知れる。
明治十二年大田原宿の有志四名が、私財を出資して架橋したいと、戸長役場に申請したが、宿では今までどおり宿持として続けたいと、町内総代連書をもって返答し、許可にはならなかった。
規定書
一蛇尾川橋之儀是迄新規営繕共大田原宿持之処今般当宿成田久八殿外三名ヨリ定橋取設度趣戸長役場江申出候ニ付其筋ヨリ町内江通知有之ニ依テ町内集会致候処右橋是迄之通大田原宿持ニ致度趣ニ付テハ町内総代トシテ国井八五郎殿鈴木平四郎殿依頼致候事相違無之候依テ連印如件
(中略)
明治十二年九月七日
印南詠帰
杉江菊治
(以下略)
(益子孝治文書)
明治になると、政府の道路改修政策によって、橋は盛んに架けられるようになったが、前述の如く民費によるものが多く、銭を払って渡らなければならないものが多かったのである。
明治十七年、県令三島通庸の強硬政策によって、道路・橋りょうの改修にも手をつけたが、この時に架橋された箒川筋の野崎橋は、当時の橋りょうの技術の粋を集めたものと思われる。
野崎橋(明治10年代)
橋りょうはその後、国及び県道に対しては公費(官費)をもってつくられるものが多くなったが、道路の整備と交通の発達により、市民生活に欠かせない、日常生活の手段としての橋が、ほぼ現在の状態に架橋されるようになったのは、大正末期以降で、永久橋に架けかえられるようになるのは戦後のことである。そのおもなものは、次のとおりである。