第一節 郵便の創業

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 明治四年(一八七一)一月二十四日、新式郵便を三月一日(太陽暦四月二十日)から、東京・京都および大阪との間に開くことが政府によって布告されたのである。これによって東海道の各宿駅に継立場(のち郵便取扱所)が置かれ、脚夫を配置して、三月一日新式郵便は走りだしたのである。
 すでに書状集箱(郵便ポスト)も各所に設置され、四種類の竜切手、四十八文・百文・二百文・五百文も印刷されていたのである。
 信書を伝達するというだけならば、すでに江戸時代に飛脚の制度があったわけであるが、公用便のほかは民間の請負であったから、必ずしも確実に届けられるという保証はなかったのである。飛脚の制度は自分で旅行するより速く届いたが、料金としては一般の人びとが気軽に利用できないほどに高額であった。このような不便を一挙に解決したのが新式の郵便であったのである。発足した当時は距離によって、料金の差が大きくあったのである。
  書状一八・七五グラム(五匁)まで
  東京から神奈川まで 一銭(百文)
  熱田まで(名古屋) 十銭(一貫文)
  大阪まで     十五銭(一貫五百文)
(「郵政百年のあゆみ」)

 東京からの所要時間は、京都まで七二時間、大阪までは七八時間を要したのであった。
 明治五年(一八七二)七月一日郵便は、本州・四国・九州の全域と、北海道の一部にまで及んだのである。それも大きな街道筋だけでなく、全国にわたる実施であったのである。創業から一年四か月にしてほとんど全国にゆきわたったのである。
 その時設置された本県の郵便役所・取扱所は四十数か所に及んだが、本市においては、大田原・佐久山(いずれも旧本陣)に同五年七月一日に、御用取扱所が創設されたのである。
 
  郵便取扱役姓名 明治十四年
   那須郡
    大田原三等 印南詠歸(初代印南俊吾)
       七等 印南佐平
    佐久山四等 渡邊清平(初代)
(「栃木県史 史料編・近現代七」)


大田原郵便局・明治後期(大田原郵便局提供)


大田原郵便局印(明治10年代)

 新式郵便は全国にゆきわたったものの、初めは昔ながらの飛脚屋も依然として営業を続けていたのである。つまり官営の事業ではあっても、未だ政府の独占ではなかったのである。これを改めたのが、明治六年(一八七三)三月の布告であった。「同年五月一日より信書の逓送は、駅逓頭の特任に帰せしめ、他は何人を問わず、いっさい信書の逓送を禁止」したのである。
 そして政府は、同年四月一日から、郵便料金を全国均一とすることに踏み切ったのである。
 書状は国内どこに出しても、二匁(七・五グラム)ごとに二銭と定められ、また市内郵便は半額の一銭となったのである。
 同年十二月一日には、「はがき」も発行された。その形は、二つ折りの薄紙で、市外用が一銭、市内用が半銭であったのである。
 郵便事業の伸び方はめざましく、施設などすべて新しくしたのでは、大変な国費を要した。そこで、地方の資産家・名望家を説得して郵便取扱役に任命し、自宅をもって郵便取扱所にあてたのであった。
 同七年(一八七四)一月、駅逓寮は内務省の所管となり、郵便取扱所の名称も郵便役所と改め、同八年(一八七五)一月一日には、「郵便局」の名称になったのである。
 
  郵便局位置及集配村名
   大田原郵便局
     石林村  岡村  鹿畑村  上奥沢村  宇田川村
   佐久山郵便局
     花岡村  上河戸村  下河戸村  親園村
   黒羽郵便局
     北金丸村  佐良土村  湯津上村  北野上村  片田村  蜂巣村
(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 同七年九月、「郵便為替規則」が公布され、同八年一月二日から為替の取扱いが開始されたが、すべての郵便局で一斉に取り扱うことは未だ資金や運営の面から、できなかったのである。
 市域では大田原郵便局が、最初に為替を取り扱ったのである。当初の為替料金は、次のとおりである。
  五円まで    三銭
  二〇円まで  一〇銭
  三〇円まで  一五銭
 なお、証書一枚の金額は三〇円までとなっていたのである。
 新聞や雑誌などの定期刊行物は明治四年(一八七一)に、送る道は開かれていたが、「小包郵便法」が公布されたのは、同二十五年(一八九二)六月で、施行されたのは同年十月一日であった。初年度は東京だけで、翌二十六年度から、全国の主要地域にひろがったのである。
 料金は重量および距離によって差があったが、距離制が廃止され重量のみの料金体系になったのは同三十五年からである。
 郵便事業の現業機関は、全国いたるところに設けられている郵便局である。これは普通郵便局と特定郵便局に分けられ、このほか昭和二十四年七月に簡易郵便局が設けられたのである。郵便局のうち、その七割以上を占めているのが特定郵便局である。かつて三等郵便局と呼ばれたもので、地方の資産家・名望家が局舎を提供し、局長となって請負経営を行ってきたが、昭和十六年の郵便局の等級制廃止によって、一・二等局は普通郵便局、三等局は特定郵便局と呼ばれるようになったのである。
 名称は改められても経営の内容は変らず、特定局は郵便物の集配業務や貯金・保険の募集および集金業務を行う「集配局」と、もっぱら窓口業務を行う「無集配局」とがある。無集配局はおおむね規模の小さな局である。同二十三年特定局長が局舎や敷地を提供しなければならぬ義務を廃止し、その代価を国が支払うようになったのである。
 簡易郵便局は、市町村などの地方自治体や公共団体などに業務を委託し、へんぴな地方にまで窓口機関を普及したのである。