電信

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電信機が渡来したのは、安政元年(一八五四)二月、アメリカのペリー提督によって、横浜において電信機の実験をこころみられたのが最初である。やがて明治維新をむかえた新政府は、明治元年(一八六八)十二月、電信を官営とすることに決定したのである。
 翌二年八月、横浜の灯明台役所と、裁判所との間、約八〇〇メートルにわたって電信線がとりつけられ送受が始められたのが、我が国における電信実用の最初であった。
 伝信機役所(電信のこと)が横浜裁判所の中に設けられ、東京まで電信の架設工事が始められたのは、同年九月十九日のことである(太陽暦の十月二十三日)。この日がのちに「電信電話記念日」と定められたのである。
 東京と横浜との間に電信が開通したのは、同三年(一八七〇)十二月二十五日のことであり、公衆のための電報が、初めて取り扱われるようになったのはこの時からである。
 通信料は、カナ一字につき銀一分であった。銀一分は一厘六毛あまりであったので、二〇字の通信料は三銭三厘となる。そのほかに配達料が別料金になるので、当時としては相当の高額になった。
 電信は郵便事業とならんでめざましい発展をとげ、西南戦役後(一八七七)には全国に通じるようになったのである。
 同十一年(一八七八)三月二十五日、電信中央局の落成を機に、電信事業が正式に開業し、そして同十二年(一八七九)一月二十九日には「万国電信条約」に加盟したのである。
 無線電信は、航行中の船舶にとっては唯一の通信手段である。そこで政府は、大正四年(一九一五)六月「無線電信法」を公布し、一定の制限を加えて私設を認めたのである。
 大正九年(一九二〇)ころ使用されていた電波は長波であったが、よい無線電信局を建設した国がよい波長を獲得できるので、同十四年(一九二五)日本無線電信株式会社が特殊法人として設立されたのである。
 昭和時代に入ると、短波を用いる通信方式が開発され、各国とも短波を採用し始めたのである。
 同二十五年五月、「電波三法」が公布され、六月一日一部を除いて施行されたのである。のちにこの日を記念して「電波の日」が定められた。
 同三十一年の大田原電電公社の電信施設及び取扱員数は、次のとおりである。
印刷電信機音響電信機電話機有線通信従事者電報配達従事者
(「市勢要覧 大田原」昭和三一年)

 現在(昭和五十五年)の施設は第1・2表のとおりである。
第1表 電信設備
局名設備名設備数記事
大田原TEX-2形自動集信装置7MKRFLLF(A-0.1)(B) RSFTRF(A)(B)
VT-24TV搬信端局装置2対地(東京,宇都宮,黒磯)
VT-24CB〃1対地(宇都宮,黒磯)
VT-24B〃3対地(宇都宮,黒磯,矢板,那須,玉生,西那須野,塩原)
西那須野VT-24B〃1対地(大田原)
塩原VT-24B〃1対地(大田原)
(「大田原電報電話局業務概要」昭和55年)

第2表 手動
区別交換機種台数座席数
DSADSA6号SB市外台48
併合台510
共用案内台6号S案内台510
監督台6号監督台00
応答監査機1号応答サービス観測装置11
(「大田原電報電話局業務概要」昭和55年)