同二十二年(一八八九)三月、電話事業を官営にするとの方針が決定されたが、この時すでに電話は逓信省によって架設され、通話も行われていたのである。
同年四月には「電話交換規則」が制定され、東京と横浜において加入者の募集が始められたのである。
世間ではまだ電話の効用についての認識がとぼしく、官庁や大会社・新聞社・銀行などの加入が大部分であったのである。
同三十六年(一九〇三)になると、全国の主要都市で交換業務を行うようになり、電話の需要もふえる一方であった。本県に電話が登場したのもこのころで、日光が最初とされている(「明治百年栃木県の歩み」)。
大正十五年(一九二六)、東京と横浜で自動交換が始まり、電話機もダイヤル式になったのである。
昭和二年になると、イギリスとアメリカとの間に無線電話が開通したのである。その後短波回線の実用化によって無線電話網は広がり、同七年十二月、国際電話株式会社の設立をみるに至ったのである。のち第二次大戦後の同二十七年八月一日、「日本電信電話公社法」が施行され、日本電信電話公社が発足したのである。
電電公社が発足するや、郵政省はあらためて公社と協定を結び、電信電話の業務を続けることになった。その料金は公社の収入であり、運営に要する経費を公社が支払うという形式である。同三十年七月からは普通郵便局をふくめて、委託業務を開始したのである。
電話機の移り変わり
一、ガワーベル電話機
明治二十三年(一八九〇)
東京と横浜の間で電話交換が始まったとき使われた電話機である。
イギリスのガワーが発明した送話器とベル電話機とを組み合せたもので、ガワーベル電話機と呼ばれたのである。
国産一号電話機は明治十一年(一八七八)六月完成したが、音声が弱いので同十六年に中止した。
東京と横浜の間で電話交換が始まったとき使われた電話機である。
イギリスのガワーが発明した送話器とベル電話機とを組み合せたもので、ガワーベル電話機と呼ばれたのである。
国産一号電話機は明治十一年(一八七八)六月完成したが、音声が弱いので同十六年に中止した。
ガワーベル電話機(1890・明治23年)
二、デルビル磁石式壁掛電話機
明治二十九年(一八九六)
横についているハンドルをまわす磁石式発電機を用いたので「磁石式」と呼ばれた。
この電話機は感度がよいので、約四〇年間も使用されたのである。
横についているハンドルをまわす磁石式発電機を用いたので「磁石式」と呼ばれた。
この電話機は感度がよいので、約四〇年間も使用されたのである。
デルビル磁石式壁掛電話機
(1896・明治29年)
三、二号自動式卓上電話機(昭和二年)
大正十五年(一九二六)東京と横浜で自動交換がはじまり、電話機もダイヤル式となった。
最初の自動式電話機は、二号共電式の箱にダイヤルを組みこんだものである。
最初の自動式電話機は、二号共電式の箱にダイヤルを組みこんだものである。
2号自動式卓上電話機
(1927・昭和2年)
四、三号自動式卓上電話機
昭和八年、今の電話機のように聞くところと話すところが一本になった電話機で、その後約三〇年間にわたって使用された。
五、四号自動式卓上電話機
昭和二十五年、今までの三号電話機より、感度・性能・デザインともに世界の水準を抜く電話機が登場したのである。
(「栃木の電話と電報」 栃木電気通信部)
4号自動式卓上電話機(1950・昭和25年)