当時受像機は一般庶民にはまだまだ高嶺の花であった。一流企業の中堅社員が月収三〇、〇〇〇円程度であった時、アメリカ製一七インチの受像機が二五〇、〇〇〇円前後もしたのである。
人びとは専ら「街頭テレビ」にあつまり、相撲やプロレスなどに熱中したのであった。
大田原旧市内では、大田原小学校校庭、薬師堂境内、大田原警察署前(現 大田原荒町通り山の手一~七)、東京電力大田原営業所内の四か所にテレビ受像機がおかれたのであった。
市民達は、毎夜見たい一心で、暑さ寒さに関係なく日参し、長時間立ちん坊で見たのであった。
同二十九年から三か年の大田原市のテレビ聴取世帯は、第5表のとおりである。
第5表 テレビ聴取世帯数(概数) |
年度別 | 総数 | 内訳 | 一〇〇〇世帯加入世帯 | |
有料 | 無料 | |||
昭和二九年 | 一二 | 八 | 四 | 一・五 |
三〇 | 一二 | 八 | 四 | 一・五 |
三一 | 一五 | 一一 | 四 | 一・九 |
(「市勢要覧 大田原」昭和三二年) |
同三十一年の「経済白書」によると、戦後は終ったといい、また「神武景気」の上昇によってテレビは、電気冷蔵庫・電気洗濯機とともに、しだいに庶民のものとなってきたのである。受像機の大量生産が始まり、値段も安くなってきたのである。国産白黒テレビ受像機価格の変遷は次のとおりである。
白黒テレビ一四インチテーブル型
昭和三〇年 一二四、〇〇〇円
三一年 九七、〇〇〇円
三二年 八一、〇〇〇円
三三年 七六、〇〇〇円
三四年 六七、〇〇〇円
(「放送の五十年」NHK)
カラーテレビは、同三十九年の東京オリンピックを契機に発展するが、大田原市のテレビの普及率も急テンポでのびたのである(第6表)。
第6表 テレビ普及率 |
年度 | 聴取世帯数 |
三十九年 | 二・四世帯に一台 |
四十年 | 一・二世帯に一台 |
四十一年 | 一・一世帯に一台 |
(「市勢要覧 大田原」より作成) |