幕府の学問所にならって開かれたものが大多数であるが、特に江戸時代後期になるとどんな小藩にも設けられたものである。
「日本教育史」(唐沢富太郎著)によれば、明治二年の総藩数二六七藩のうち二一九藩が慶応三年(一八六七)まで藩校をもっていた。
このうち一八七校(八五パーセント)までは宝暦から慶応(一七五一~一八六七)にかけての一一七年間に設けられたものであると述べている。このように盛んになった理由は、幕藩体制の行き詰まりを、幕府の文教政策を基とする、教育によって打開しようとしたことによる。
すなわち、藩内に学校を建て、人材を養成し、藩政改革を行い、危機を克服しようとはかったためである。かくして、全国的に藩経営の学校が盛んとなり、幕末から維新期にかけては、庶民の入学をも許可した藩校もかなり見られるようになってくるのである。
栃木県内においても、藩内に有能な人材を養成しようとして、次のような藩校が開かれている。
設立藩 設立者 学校名 設立年
宇都宮 戸田忠延 修道館 文化十二年(一八一五)
烏山 大久保常春 学問所 享保十一年(一七二六)
壬生 鳥居忠英 学習館 正徳三年(一七一三)
黒羽 大関増業 何陋館 文政三年(一八二〇)
黒羽 大関増裕 作新館 文久三年(一八六三)
茂木 細川興徳 弘道館 寛政六年(一七九四)
佐野 堀田正頌 観光館 元治元年(一八六四)
大田原 大田原広清 時習館 嘉永三年(一八五〇)
足利 戸田忠行 求道館 明治元年(一八六八)
喜連川 喜連川𠘑氏 翰林館(広運館) 弘化三年(一八四六)
吹上 有馬氏弘 学聚館 明治二年(一八六九)
(「栃木県大百科事典」)
藩によっては、藩士の子弟をはるばる江戸に学ばせ、藩内の有能な人材登用をはかっているものもある。